遼史卷八十六 列傳第十六 耶律博迪

辺境の失地回復を進言した廉直の宰相

  • 耶律博迪、字は薩巴。季父房諾衮の孫で孤高な性格。重熙初年、牌印郎君に補せられ、清寧初年、易州の知事に遷るが辞して官を去ると、部民が留任を願い出て許された。咸雍八年、彰国軍節度使に改まる。帝が達里庫山で狩猟の折、博迪が行宮に謁見し辺境事情を問われると「応州南境から天池までは元来わが領土の耕牧の地であるが、清寧年間に辺将が慎まなかったため宋に侵され、烽堠が内側に移されているのは適切ではない」と答え、道宗は納得した。
  • 北面林牙を拝命、後に宋に使いして侵地の返還を得て、博迪は境界の確定に赴いた。帰還後、南院宣徽使を拝命、太康四年、忠順軍節度使に遷り、南院大王を経て南京留守を同知、南府宰相に召され貞良功臣を賜り呉国公に封じられ、北院枢密使となった。廉直で公務に励み、なすべきことをなし、大安年間に致仕して卒した。子の錫黙は北院枢密副使となった。

史論

  • 論にいう。耶律和卓は辺境を安んじ和睦を講じ、兵を養い民を休ませたその配慮は深遠であった。一方、六符が交渉によって功を求めたことは、国家の利益とは言い難い面もある。牛温舒・杜防・博迪・哈爾吉らは、命を受けて使いに出てもその使命を辱めることがなかった。紐斡哩は婢を殺してまで婚姻を求め、身に罪を負いながら、皇帝の肖像を描いて死を免れようとしたことも、また醜いことといえよう。