出自と生い立ち
- 蕭孝穆、小字は和爾沁。淳欽皇后の弟阿古齊の五世孫で、父は托輝、國舅詳衮を務めた。廉直で礼法を重んじる人物であった。
統和・開泰年間の武功
- 統和28年(1010年)、たびたび昇進して西北路招討都監となった。
- 開泰元年(1012年)、建雄軍節度使を遙授され検校太保を加えられた。この年、珠拉らが変を起こすと孝穆はこれを撃退した。
- 冬、軍を進めて哈屯城で準布部の結五羣牧長扎拉圖らの謀反を悉く誅した。厳しく防備を固めて残党を待つと敵は潰滅し、その功により九水諸部安撫使に遷った。
- 間もなく北府宰相を拝し、忠穆熙霸功臣を賜り、検校太師・同政事門下平章事となった。開泰8年(1019年)、京師に還った。
太平年間、大延琳の乱平定
- 太平2年(1022年)、知樞密院事となり漢人行宮都部署を兼ねた。太平3年(1023年)、燕王に封ぜられ南京留守兵馬都總管となった。
- 太平9年(1029年)、大延琳が東京で反乱を起こすと、孝穆は都統としてこれを討った。蒲水で戦い中軍がやや退いたが、副部署の蕭必塔・都監の蕭博諾が両翼から挟撃して賊を潰走させ、手山北で追撃してこれを破った。延琳は城に入って深溝を掘り自衛したが、孝穆はこれを包囲し重城を築き楼櫓を起てて内外の連絡を絶ち、城中では屋を撤して炊事するほど追い詰めた。その将楊詳世らが延琳を捕らえて降伏し、遼東は悉く平定された。
- 東京留守に改められ佐國功臣を賜り、政務は寛簡で民を撫育し流民もこれに安んじた。
- 興宗即位により秦王に徙封され、間もなく再び南京留守となった。重熙6年(1037年)、呉國王に進封され北院樞密使を拝した。
重熙年間の施政と諫言
- 重熙8年(1039年)、天下の戸口を籍して徭役を均しくすることを表請し、また諸部及び錫里軍の利害を陳べてこれに従われた。これにより政賦がやや平らかになり衆が悦んだ。重熙9年(1040年)、楚王に徙封された。当時天下は無事で戸口が繁殖しており、皇帝は治世の充実を誇り、しばしば周が十県を取った故事に言及して南伐の志を慨然と抱いた。群臣の多くはその意に従ったが、孝穆は諫めて言った。
- 昔太祖の南伐は終に功が無かった。嗣聖皇帝が唐を仆し晉を立てたが、後に重貴が叛いたため長駆して汴に入り、鑾馭が旋ると反って侵軼を招いた。それ以来20余年戦い続け、ようやく和好を得た。蒸民は業を楽しみ南北は相通じている。今の国家は往時に比べれば富強とはいえ、勲臣宿将は往々にして物故しており、また宋人には罪が無い。陛下は先帝の盟約を棄てるべきではない。
- 当時帝の意は既に決していたため、上奏は聞き入れられなかった。孝穆は年老いたことを理由に骸骨を乞うたが許されなかった。
- 重熙11年(1042年)、再び北院樞密使となり齊王に更封された。薨じ、大丞相・晉國王を追贈され、諡は貞といった。
- 孝穆は皇后の外戚として位高く、太后への畏敬をますます深め、賜り物があってもしばしば辞して受けなかった。妻子に驕色なく、人と交わるに始終一貫していた。推挙・抜擢した者は皆忠直の士であった。かつて人に語って言った。「樞密は賢を選んでこれを用いればよい。何事も自ら親しく煩碎に処せば大事が滞る」。
- 蕭和卓が吏才によって進んで以来、後の者はこれに倣うのみで大体を知らず、孝穆は歎いて「風俗を移し易えることができず、爵位に偸安するのは臣子の道であろうか」と言った。当時「国宝臣」と称された。著書に『寶老集』がある。二子はアラサバ、弟に孝先・孝忠・孝友がおり各々伝がある。
薩巴
- 薩巴、字は周隱。7歳で戚属として左右千牛衛大将軍を加えられた。重熙初め、祗候郎君に補された。廉介な性で風姿爽朗、毬馬・馳射を善くした。帝の宴飲では諧謔を喜んだが、薩巴は寵を受けても常に礼をもって自ら持した。時人はこれを称した。
- 柴冊の礼により恩を加えられ検校太傅・永興宮使・総領左右護衛・同知点検司事となり、魏國公主を娶り駙馬都尉を拝し、北院宣徽使となり朝廷の礼儀を総知した。重熙末、西北路招討使・武寧郡王として出て居官し治を以て称された。清寧初め薨じ、年39。齊王を追封された。
孝先
- 孝先、字は延寧、小字は哈里。統和18年(1000年)、祗候郎君に補され、南陽公主を娶り駙馬都尉を拝した。開泰5年(1016年)、国舅詳衮となり兵を率いて東鄙に城を築き、還って南京統軍使となった。太平3年(1023年)、漢人行宮都部署となり、間もなく太子太傅を加えられた。
- 太平5年(1025年)、上京留守に遷ったが母老を理由に侍養を求め、再び国舅詳衮となり東京留守に改まった。折しも大延琳が反乱を起こし数月包囲されたが、地を穴って脱出し、延琳の乱が平定されると上京留守に留まった。
- 太平11年(1031年)、帝が不豫になると欽哀太后は孝先を召して禁衛を総べさせた。興宗が諒陰にあった際、欽哀は仁徳皇后を弑し、孝先は蕭楚布・蕭必塔らと共にこの謀に多く与った。欽哀の摂政に及び天平軍節度使を遙授され守司徒を加え政事令を兼ねた。
- 重熙初め、楚王に封ぜられ北院樞密使となった。孝先は椒房の親として太后に重んじられ、樞府にあって好悪を自恣にし権が人主を傾け、朝廷の多くがこれを側目した。重熙2年(1033年)、太后と孝先は廃立を謀ったが、帝はこれを知り衛兵を勒して宮を出し、孝先を召し至らせて太后を廃する意を諭した。孝先は震懾して対することができなかった。太后は慶州に遷され、孝先は恒に鬱鬱として楽しまなかった。
- 重熙4年(1035年)、晉王に徙封され、後に南京留守となり、卒した。諡は忠肅。
孝友
- 孝友、字は塔布延、小字は辰瑠。開泰初め、戚属として小将軍となった。太平初め、大冊により左武衛大将軍・検校太保を加えられ「孝友」の名を賜った。
- 重熙元年(1032年)、たびたび昇進して西北路招討使となり蘭陵郡王に封ぜられた。重熙8年(1039年)、陳王に進封された。これより先、蕭恵が招討使であった時は専ら威をもって西羌の諸夷を制していたため多くが叛いていたが、孝友は着任すると手厚く綏撫を加え、入貢のたびにその賜物を増やしたので羌人は安んじた。しかし久しくして姑息となり、諸夷の桀驁の風がかえって熾んになり、識者はその過中を譏った。
- 重熙10年(1041年)、政事令を加え効節宣庸定逺功臣を賜り、呉王に更封された。兄孝穆・孝忠を葬った後、京師に還り南院樞密使を拝し、翊聖協穆保義功臣の賜を加えられ、趙王に進封された。中書令を拝し、母憂に丁って起復し北府宰相となり、東京留守として出た。
- 折しも夏を伐つに際し、孝友は樞密使蕭惠と共に河南で失利し、帝はこれを誅そうとしたが太后が救って免れ、再び東京留守となった。燕王に徙封され上京留守に改まり、更に秦王に封ぜられた。清寧初め、尚父を加えられ、間もなく再び東京留守に留まり、翌年再び北府宰相となった。帝は自ら誥詞を製してこれを褒寵し、柴冊の恩により洛京留守を遙授され、純徳功臣を加賜された。致仕し豐國王に進封された。
- 子呼圖克が重元の乱に与して伏誅した罪に坐した。年73。呼圖克は逆臣伝にある。