遼史卷八十六 列傳第十六 劉六符

外交交渉で宋に「進貢」の名目を認めさせる

  • 六符の父慎行は膳部員外郎から北府宰相・監修国史に累進した。帝がしばしば宴飲の場で誅賞を即決するのを見て、慎行は「喜怒によって威福を加えるのは適切ではない」と諫め、帝は改めて政府に「今後宴飲の場での刑賞は翌日に諮ってから行う」と諭した。慎行は都統として高麗討伐に赴いたが軍期に遅れ吏議にかけられそうになったが免れ、彰武軍節度使として出て保節功臣を賜った。子は六人、一徳・二玄・三嘏・四端・五常・六符で、徳は早世、玄は上京留守・三司使・武定軍節度使を歴任、嘏・端・符はいずれも進士に及第、嘏・端は駙馬都尉となった。
  • 三嘏は聖宗に「一矢斃雙鹿賦」を献じその豊麗さを称賛されたが、公主と不仲になり宋に逃亡し、後に殺された。四端は衛尉少卿として宋への生辰使を務めた際、宴で女楽が終始張られる中でも動じず人々に威厳を畏れられ、帰国後は樞密直学士を拝命。
  • 六符は志操があり文才に優れた。重熙初年、政事舎人に遷り翰林学士に抜擢。重熙十一年、宣徽使蕭特黙と共に宋に使いして十県の地の返還を求め、帰国後は漢人行宮副部署となった。宋が歳幣を増やすことで十県との交換を求めた際、耶律仁先と共に宋に使いして進貢の名目を定める交渉にあたった。宋がこれを拒む姿勢を見せると、六符は「わが国は兵強く将勇にして海内周知のところ。人々は皆宋との対決を望んでおり、もし俘獲を思うままにすれば得られる利益は『進貢』の文字より遥かに大きいはず。それでも小さな面子にこだわり大患を招けば、大軍が燕に駐屯している以上、南進を止められない。悔いても及ばない」と説き、宋はついに従い歳幣は「貢」の名目で贈られることとなった。
  • 六符は帰国後、同中書門下平章事を加えられ、宋の幣物到着時には三司使としてこれを受け取った。参知政事の杜防と不仲になり、六符が宋から賄賂を受けたと訴えられ長寧軍節度使として出されたが、まもなく三司使に召還された。道宗即位に際し大冊礼を行うにあたり、北院枢密使蕭格が「儀物を整えるには広い地が必要、黄川がよい」と主張したのに対し、六符は「そうではない。礼儀は国家の大体、帝王の楽は野で奏でるものではない。中京は四方の中心であり朝覲にも便利、中京で行うべきだ」と説き、帝はこれに従った。まもなく病により卒した。