遼史卷八十六 列傳第十六 劉景

赦書の遅延を諫めた学者宰相候補

  • 劉景、字は可大。河間の人で四世祖の怦は朱滔の甥、唐の右僕射・盧龍軍節度使を務めた。父の守敬は南京副留守。景は資性端厚で学を好み文才に優れ、燕王趙延壽に召され幽都府文学となった。応厯初年、右拾遺知制誥に遷り翰林学士となる。応厯九年、後周が燕を侵した際、留守蕭思温が急報したが帝は秋の出師を待とうとした。景は「河北三関はすでに敵に陥ち、燕まで侵されるのを座視できるだろうか」と諫めた。
  • 父の喪に服したが間もなく起用され旧職に復した。ある時、赦書の起草を命じられ数か月放置された際、景は「唐制では赦書は一日五百里で伝えるべきものだが、今は期限を過ぎても発せられていない」と上奏したが帝は取り上げなかった。
  • 景宗即位後、景の忠実さを評価し礼部侍郎に抜擢、尚書宣政殿学士に遷った。帝は景を宰相に登用しようと考え、その笏に「劉景可為宰相」と書き記した。まもなく南京副留守を拝命。留守韓匡嗣が扈従で北上した際は、その子徳讓と共に京事を統轄した。戸部使に召され武定・開遠二軍節度使を歴任、統和六年に致仕し兼侍中を加えられ67歳で卒し、太子太師を贈られた。子の慎行、孫の一徳・二玄・三嘏・四端・五常・六符はいずれも六符伝に記す。