遼史卷七十八 列傳第八 蕭思温

辺境防衛の功臣、景宗擁立の立役者

  • 蕭思温、小字は伊庫。宰相達魯の族弟ハマルの子。学問を修め、太宗の代に奚圖哩太尉となり、燕国公主を娶って羣牧都林牙となった。軍中の統率は謹厳だったが、僚佐からは将師の才に欠けると評された。のち南京留守となる。
  • 後周が揚州を攻めた際、帝は思温にその背後を突かせたが、暑さを恐れて進軍せず、周辺の数城を落として引き上げるにとどまった。後に後周軍が馮母鎮を包囲した際、思温は増兵を求めたが、帝は「敵来れば統軍司と兵を併せて拒み、敵去れば農事に努めよ」と応じるにとどめた。
  • 周軍が滹沱河を渡って屯した際、思温は「敵は多く鋭いが、戦えば後患を残す。兵を止めてその勢いを弱らせ、機を見て撃つべき」と諸将に説いて従わせ、周軍を撤退させた。
  • のち後周主が北侵し、傅元卿・李崇進らと分道並進、瀛州を囲み益津・瓦橋・淤口の三関を陥落させて固安に迫った際、思温は「駕(帝の親征)が近く到着する」とだけ告げて時を稼いだが、部下は出撃を望んだ。応じないうちに易・瀛・莫などの州が陥落し、燕の民は動揺した。思温は防備の失策を恐れて親征を請う上表をした。折しも後周主柴榮が病のため撤退し、思温は益津まで進んで敵を欺き、歩卒二千余人を破った。同年、後周の喪を聞いて燕の民は落ち着き、思温は帰還した。
  • 穆宗が酒に溺れ殺戮を好む中、思温は密戚として政に与ったが匡輔することがなく、世論の支持を得られなかった。応厯十九年春、狩猟で穆宗が熊を射て中てた夜、思温らが祝杯を勧め、帝は酔って宮に戻ったが、その夜、庖人の錫衮らに弑逆された。思温は南院枢密使の高勲・飛龍使の紐哩らと共に景宗を擁立した。
  • 保寧初年、北院枢密使兼北府宰相となり、宰相候補にも定められた。帝は思温の娘を皇后に冊立し、尚書令・魏王に封じたが、帝の閭山での狩猟に従った際、賊に襲われ落命した。