倹約を旨とした将
- 蕭繼先、字は楊隱、小字は瑠智格。幼くして聡明で、叔父の思温が養子とし、睿智皇后にことに愛された。乾亨初年、齊国公主を娶り駙馬都尉を拝命。統和四年、宋軍来侵の際に邏騎を率いて多くの捕虜を得、帝に賞された。以後、出師のたびに継先は本府の兵を率いて先陣を務め、拝北府宰相となった。
- 狼山石壘の攻略、応州での宋軍撃破に従い、帝の南征では通利軍を攻め戦功を挙げた。高麗親征の際は年老いていたため上京留守に留まった。58歳で没した。継先は富貴の身にありながら倹素を保ち、赴任先では善政をもって知られ、将兵を率いて戦えば負けを知らず、外戚の中でも名声を高めた。
史論
- 論にいう。人君の過ちのうち最大のものは無辜を殺すことである。湯王が桀を伐った際も、武王が紂を伐った際も、堯が苗民を征した際も、いずれもその罪として「無辜を殺した」ことを挙げている。この観点からすれば、伊勒哈の諫言は古の君子の風にほぼ及ぶものである。
- ただし、善く諫める者は自らの過ちについては諫めにくいもの。心術の兆しの段階で気づき、脈を診る者が病の兆しを先に治すように振る舞ってこそ功を奏する。穆宗の沈湎失徳は、その富強の勢いに任せた久しい放縦によるもので、群臣が事あるごとに諫争して警めていれば、ここまで至らなかったであろう。
- これによって知れるのは、和斯・思温は高位にありながら禄を貪り事なかれ主義に走った、真に卑しい者だったということである。一方、哈里の公正な裁判、継先の善政は、任に堪えた臣といえよう。