遼史卷七十七 列傳第七 耶律烏哲

太后と世宗の対立を調停する

  • 耶律烏哲、字は達年。孟父房の出身で、物静かで思慮深く、人物を見る目に優れていた。学問を修め天文にも通じ、太宗の会同年間に特哩衮となった。
  • 太宗が崩じたのち、大臣たちは世宗を立てたが、太后(述律太后)はこれに怒り、皇子の魯呼(李胡)に兵を授け世宗方を攻めさせた。魯呼軍は泰徳泉で世宗方の耶律安圖らを破り、世宗方の家族を捕らえて脅した。
  • 両軍は潢河の横渡を挟んで対峙した。烏哲は太后方にあったが、世宗方切り崩しのため偽の書状を作って太后に示し、太后の疑いを解いた上で「太后・魯呼・永康王(世宗)はいずれも太祖の子孫であり、皇位が他姓に移るわけではない」と説いて和議を勧めた。
  • 太后の許しを得て世宗のもとに赴き、両者の間を往来して交渉した。世宗側近には強硬論もあったが、烏哲は「骨肉相打てば勝っても禍根を残す」と粘り強く説得を重ね、ついに太后と世宗を対面させ、永康王(世宗)の即位を認めさせる和議(横渡の約)を成立させた。
  • 世宗は即位後、烏哲を近臣として重用した。天祿二年、耶律天徳・蕭翰らの謀反が発覚した際には、烏哲がいち早く情報を得て世宗に急報し、乱を未然に防いだ。
  • のち泰寧王察克(察割)が行宮で讓國皇帝(世宗)を弑逆した際にも、烏哲は変事を察知して直ちに諸王・禁衛の兵を集めて討伐にあたり、乱の平定に功をあげた。穆宗はその功を賞し「朕の命は卿の手にある」として国事を委ね、逆党の財産を賜おうとしたが烏哲は固辞した。
  • 応厯五年、北院大王となり山西の軍事を統轄。保寧初年には宋軍来援のため太原へ出陣し、夜陰に乗じて疑兵の計を用いて宋軍を退けた。その功により裕悦(オユト)に進んだ。
  • 保寧四年、北漢の劉継元が使者を送り貢物を烏哲に贈った。烏哲はこれを帝に報告し受け取る許しを得た。保寧五年五月、57歳で薨じた。帝は深く悼み三日間朝を輟め、のちに道宗が上京に祠を立てさせ功績を石碑に刻ませた。