永康王擁立を主導する
- 耶律吼、字は赫嚕。六院部の出身で、質実であり贅沢を好まなかった。太宗に重んじられ、会同六年に南院大王となり、人事の選抜を厳正に行った。
- 晋の石重貴が不遜な上表をした際、吼は討伐を進言し、太宗の親征に従軍した。汴京入城後、諸将が財宝を漁る中、吼は馬具のみを取り、太宗に称賛された。
- 太宗が欒城で崩じ後継が定まらぬ中、吼は北院大王の耶律斡と諮り、暴戻な魯呼ではなく永康王(世宗)を立てるべきと決した。折しも耶律安圖も同意見で、共に世宗擁立を主導し、世宗を柩前で即位させた。
- 功により採訪使を加えられ財宝を賜ろうとしたが、吼は辞退し、代わりに罪に問われた従弟の子らの赦免を願い出た。帝はその人柄を賞し、多くの宮戸を賜った。
- 天祿三年、39歳で没した。子は和勒博。
和勒博――父の功により重用される(耶律吼の附伝)
- 耶律吼の子・和勒博、字は実訥。耶律烏哲とともに察克の乱平定に加わったが、穆宗の代は父が世宗擁立を首唱した経緯から重用されなかった。景宗即位後、乱平定の功により昭徳軍節度使・北院大王となった。
- 黄龍府の軍将・燕頗が守臣を殺して叛いた際、討伐にあたり鴨緑江でこれを破ったが、追撃を怠り賊を逃したため杖罰を受けた。乾亨年間に没した。