生涯
- 磁州の人。唐で掌書記から翰林学士に進み、石敬瑭挙兵時は招討判官として趙徳鈞の張敬達救援に従ったが、敗戦後契丹に降った。太宗は礪の剛直さと文才を認め翰林学士に抜擢し、直言を憚らない態度を重んじた。一時帰郷を図って追捕されたが「北方の風俗になじめず鬱々としたため」と答え、太宗は側近の通事高彦英を杖罰しつつ礪を許した。
- 会同初め翰林承旨兼吏部尚書に進み、晋討伐で汴入城後、蕭翰・耶律郎伍・満達らの掠奪に対し「中国を得たなら中国人で治めるべき、国人・近習を専用すれば人心を失う」と諫めたが容れられず、右僕射兼門下侍郎平章事に転じた。太宗の崩御後、恒州にいた礪は病中、蕭翰・満達に「先帝への諫言や節度使人事への異論、嘉哩との不正蓄財の讒言」を責められ捕縛されかけたが、「これは国家の大事、言うべきことを言ったまでだ、殺すなら殺せ」と抗弁し、満達も大臣の専殺を憚って中止したものの、この夜礪は憤死した。
史論
- 当初、晋は遼の兵によって天下を得たため臣礼を尽くし父に事えるように振る舞い、土地を割き貢物を納めていたが、それも長くは続かず会同の軍が滹沱に至った。これは諸将の貪功黷武によるものか、それとも信義が心底にはなかったことによるものか。模翰は功名を全うし良将と称すべきである。延壽の勲功は著しいが、儲位を望んだのは利に目がくらんだ誤りであった。嘉哩のように末節に瑕をつけて功業を損なった者は、いかに評すべきであろうか。