遼史卷七十六 列傳第六 趙延壽

生涯

  • 本姓は劉、恒山の人。父邟が令蓨の官にあった際、劉守文の蓨陥落で裨将趙得鈞に養子とされた。容貌美しく書史を好み、唐明宗の娘婿となり駙馬都尉・樞密使に拝された。明宗の子從榮の専横を避け宣武軍節度使に出て、清泰初に魯国公・樞密使として許州に鎮した。
  • 石敬瑭の太原挙兵の際、張敬達討伐に赴いた父徳鈞とともに救援に向かうが晋安寨陥落を聞いて撤退、太宗に追われ延壽父子は降伏。翌年徳鈞の死後、延壽は幽州節度使・燕王に封じられ南京留守を兼ね、天顯末には晋にある妻を引き取った。会同初め政事令を加えられ、晋討伐の先鋒として貝州を落とし魏博節度使・魏王に封じられ、南楽で晋軍を破って将賽項羽を捕らえた。太宗の撤兵論に対し「澶州の橋を奪えば晋は平らげられる」と諫めて容れられ、晋軍を破った。
  • 8年の再征では晋主の招きに乗じて策を弄し、滹沱河の中渡橋で晋軍と激戦、太宗が別路で渡河する間、碩格とともに橋を守り抜いて杜重威を降した。太宗は延壽に龍鳳赭袍を賜い漢兵の撫慰を委ねた。汴入城後、李崧を通じて皇太子の位を求めたが「魏王には肌肉を割いても惜しまぬが、皇太子は天子の子でなければならぬ」と太宗に退けられた(太宗はかつて晋を滅ぼした暁には中原の帝にすると許していたため)。延壽は翰林学士承旨張礪の起草により中京留守・大丞相・録尚書事・都督中外諸軍事に進んだ。世宗即位後、擁立の功により樞密使に任じられ、天祿2年に薨じた。