生涯
- 一名松、渤海人。膂力・騎射に優れ兵談を好んだ。太祖の渤海平定後、高麗に逃れ王の娘婿となったが罪を得て帰国、酒に酔って殺人を犯し下獄したが太祖にその才を惜しまれ赦された。天顯11年、唐の張敬達・楊光遠が太原を攻めた際、石敬瑭の求めに応じ模翰が出撃してこれを破り太原の囲みを解いた。太宗は「わが挙兵以来、卿の功は第一、古の名将にも劣らぬ」と評し上将軍に任じた。
- 会同元年の冊礼の宴で太宗は模翰を「国の勇将、天下統一もこの人の力による」と百官に紹介した。晋討伐でも統軍副使として赤城・徳貝の諸寨を破り、圍まれた乾寧軍節度使楊覃を救う際、模翰の目から光が発したという瑞祥を見て士気を上げ勝利。鹽山・饒安を破って晋を震撼させた。杜重威が三十万の兵で対峙した際「軍法は正にあり多寡にはない」と語り三百の兵で先鋒梁漢璋を討ち取り、太宗は李陵・項燕に比する詔書で称賛。滹沱河の再戦でも中渡橋を守り抜き、太宗は「鷹が雉兎を追うがごとし、麒麟閣に図を描くべし」と絶賛した。
- 杜重威降伏後、特進検校太師・悊郡開国公・汴州巡検使などを歴任し氾水の山賊を平定、中京鎮守を経て天祿2年開府儀同三司、応暦初に中臺省右相として東京に赴任すると父老に「戎行より身を興し富貴を致した、朱買臣らに勝る栄誉」と称えられ、9年正月左相に遷って卒した。