遼史卷五十四 志第二十三 樂志
楽志総説
遼には国楽があり、雅楽があり、大楽があり、散楽があり、鐃歌横吹楽がある。旧史は聖宗・興宗の代に音律・声気・歌辞・舞節が太常・儀鳳・教坊に及んだと伝えるが、その詳細はもはや得られない。本紀・志や『遼朝雑礼』を按じ史籍を参考にして、知り得るものを定め、一代の欠けた文を補うこととする。ああ、咸・韶・夏・武の楽は声も亡び書も逸し、河間献王が記を作り、司馬遷がこれによって書としたが、それでもわずかに残るのみである。遼の楽もこれを見れば足りるであろう。
国楽
遼には国楽があり、先王の風のようなものである。諸国の楽は諸侯の風にあたるため、その概略を志す。
正月朔日の朝賀には宮懸の雅楽を用い、元会では大楽を用いて曲が終わると散楽・角觝で締めくくる。その夜、皇帝が宴飲する際には国楽を用いる。
七月十三日、皇帝が行宮から三十里に出て帳を張り、十四日には宴を設けて従う諸軍がそれぞれの部落の楽を動かす。十五日の中元の大宴では漢楽を用いる。
春に杏堝で放鷹狩りを行い、皇帝が最初の鵝(がん)を獲ると廟に薦めて宴飲する。楽工数十人が小さな楽器を持って酒を侑める。
諸国楽
太宗の会同三年、晋の宣徽使楊端・王朓らおよび諸国の使が朝見し、皇帝は便殿に御して宴を賜ると、端・朓は進み出て歌舞を演じ、皇帝は杯を挙げて大いに楽しんだ。
会同三年の端午の日、百僚と諸国の使が式のとおり賀を称え宴飲すると、回鶻・敦煌の二使に本国の舞を演じさせた。
天祚の天慶二年、駕が混同江に行幸し頭魚(初漁の魚)の酒宴が半ばに及ぶと、皇帝は諸部の長に順に歌舞を命じて楽しんだ。女直のアグダ(阿骨打)は端座して直視し、できないと辞退した。皇帝は蕭奉先に「アグダの意気は雄豪で、その視線は尋常でない。辺境の事を託せるかもしれぬが、殺しておかねば後患を残すのではないか」と語った。奉先は「アグダに大きな過ちはなく、彼を殺せば帰順しようとする者の心を傷つけましょう。取るに足らぬ小国です、何ができましょうか」と奏した。
雅楽
漢以後、雅楽は相承がれ古頌があり古大雅があった。遼には郊廟の礼がなく頌楽もない。大同元年、太宗が汴京から帰還する際、晋の太常楽譜・宮懸の楽架を得て、所司に命じ先に中京へ運ばせた。
聖宗の太平元年、尊号冊礼にあたり宮懸を殿庭に設け、挙麾の位を殿の第三重・西階の上に置く。協律郎がそれぞれ挙麾の位に就き、太常博士が太常卿を導き、太常卿が皇帝を導いて仗を動かすと、協律郎が麾を挙げ太楽令が黄鐘の鐘を撞かせ左右の鐘が応じ、工人が柷を挙げると楽が奏される。皇帝が御座に着くと扇が合わされ楽が止む。王公が門に入ると楽が奏され位に至ると止む。通事舎人が押冊の大臣を導き楽が奏されると冊を殿前の香案に置き位に就くと楽が止む。冊を舁ぐ官が冊を奉じ楽が奏されると殿に上り御座前に冊を置き西墉の北上の位に就くと楽が止む。大臣が殿に上ると楽が奏され殿の欄内の位に至ると止む。大臣が殿の階を降りると楽が奏され位に戻ると止む。王公三品以上が出ると楽が奏され、太常博士・太常卿が皇帝を導いて座を降り閤に入ると楽が止む。
興宗の重熙九年、契丹冊を上ると皇帝が出るとき隆安の楽を奏した。
聖宗の統和元年、承天皇太后を冊するにあたり宮懸・簨簴を設け、太楽工・協律郎が入る。太后の儀衛が動くと挙麾し太和楽が奏され、太楽令・太常卿が導いて御座に登ると簾が捲かれ楽が止む。文武三品以上が入ると舒和楽が奏され位に至ると止む。皇帝が門に入ると雍和楽が奏され殿前の位に至ると止む。宰相が冊を押し皇帝が冊に随うと楽が奏され殿前の案に冊を置くと止む。翰林学士・大将軍が冊を舁ぎ楽が奏されると御座前に置き楽が止む。丞相が殿に上ると楽が奏され読冊の位に至ると止む。皇帝が殿を降りると楽が奏され位に至ると止む。太后が宣答を終えると楽が奏され皇帝が西閤に至ると止む。親王・丞相が殿に上り退班して出ると楽が止む。簾を下ろすと楽が奏され皇太后が内に入ると止む。
冊皇太子儀では、太子が初めて門に入ると貞安の楽が奏される。
冊礼の楽工の次第は、四隅にそれぞれ建鼓一虡を置き楽工各一人、宮懸は各面九虡でそれぞれ楽工一人、楽虡の近北には柷敔各一を置き楽工各一人、楽虡内の坐部楽工は左右それぞれ一百二人、楽虡の西南に武舞六十四人と小旗を執る者二人、楽虡の東南に文舞六十四人と小旗を執る者二人、協律郎二人、太楽令一人である。
唐の十二和楽は遼の初めに用いられた。豫和は天神を祀り、順和は地祇を祭り、永和は宗廟に享し、粛和は登歌して玉帛を奠じ、雍和は俎を入れ神を迎え、寿和は酌獻して神に飲ませ、太和は昇降に用い、舒和は出入に用い、昭和は挙酒に用い、休和は飯に用い、正和は皇后が冊を受けて行く際に用い、承和は太子が行く際に用いる。
遼の十二安楽は、初め後梁が唐の十二和楽を九慶楽に改め、後唐が唐の宗廟を建てるとなお十二和楽を用い、後晋はこれを十二同楽に改めた。遼の雑礼では天子の出入に隆安を奏し、太子の行には貞安を奏したことから、遼はかつて楽名を改めたことがわかる。残り十の安楽の名は欠けて伝わらない。
遼の雅楽の歌辞は文が欠けて具わらない。八音の器数は概ね唐の旧制による。八音は、金は鎛鐘、石は球磬、絲は琴瑟、竹は籥簫竾、匏は笙竽、土は壎、革は鼓鼗、木は柷敔である。十二律は周の黍尺(九寸)を用い、管の空径は三分を本とする。道宗の太康年間には秬黍を行うことを詔し、升斗を定め律を定めたことがあり、その法も概ね古律による。
大楽
漢以来、秦楚の声によって楽府が置かれた。隋の高祖に至り知音の者を求め、鄭訳が西域の蘇祗婆の七旦の声を得て七音八十四調の説に合わせようとした。これにより雅俗の楽はみなこの声によることとなった。朝廷に用いて雅楽と区別するものを大楽と呼ぶ。晋の高祖が馮道・劉昫を遣わして応天太后・太宗皇帝を冊した際、その声器・工官は法駕とともに遼に帰した。
聖宗の太平元年、承天皇太后を冊するにあたり童子・弟子隊楽が太后の輦を金鑾門まで導いた。
天祚皇帝の天慶元年の上寿の儀では、皇帝が東閤を出て鳴鞭すると楽が奏され、簾が捲かれ扇が開くと楽が止む。太尉が台を執り分班すると、太楽令が挙麾し楽が奏され皇帝が酒を飲み終えると楽が止む。坐に着くべき臣僚は東西の外殿に、太楽令が堂上の楽を引き上がらせ、大臣が台を執ると太楽令が挙觴登歌を奏し楽が奏され飲み終えると止む。臣僚に酒を行い一巡すると太楽令が巡周を奏し楽が奏され飲み終えると止む。太常卿が御食を進め太官令が食が一巡したことを奏すると楽が奏され文舞が入り三変して退くと楽が止む。次に酒を進め臣僚に酒を行い挙觴巡周すると楽が奏され飲み終えると止む。次に食を進め食が一巡すると楽が奏され武舞が入り三変して退くと楽が止む。扇を合わせ簾を下ろし鳴鞭すると楽が奏され皇帝が西閤に入ると楽が止む。
大楽器はもと唐の太宗の七徳・九功の楽であったが、武后が唐の宗廟を毀した際に七徳・九功の楽舞は失われた。その後、宗廟には隋の文武二舞を用い、朝廷には高宗の景雲楽を代わりに用いた。元会では第一に景雲楽舞を奏する。杜佑の『通典』はすでに「諸楽はみな亡んだが景雲楽舞のみわずかに存する」と称している。唐末五代の板蕩を経て残るものは稀である。遼国の大楽は晋代から伝わったもので、雑礼を見ると坐部楽工は左右それぞれ一百二人おり、おそらく景雲の遺工を坐部に充てたものであろう。坐立部の楽は唐からすでに亡び、考えられるのは景雲四部楽舞のみである。楽器としては、玉磬・方響・搊筝・筑・卧箜篌・大箜篌・小箜篌・大琵琶・小琵琶・大五絃・小五絃・吹葉・大笙・小笙・觱篥・簫・銅鈸・長笛・尺八笛・短笛(以上いずれも各一人)、毛員鼓・連鼗鼓・具(以上いずれも各二人、他の楽器は各器一人)、歌二人、舞二十人を四部に分け、景雲舞八人・慶雲楽舞四人・破陣楽舞四人・承天楽舞四人である。
大楽の調は、雅楽に七音があるように大楽にも七声があり、これを七旦という。一に婆陁力(平声)、二に雞識(長声)、三に沙識(質直声)、四に沙侯加濫(声)、五に沙臘(皆応声)、六に般贍(五声)、七に俟利箑斛(先声)という。隋以来、楽府はこの声を取り四旦二十八調を大楽としてきた。婆陁力旦には正宮・高宮・中呂宮・道調宮・南呂宮・仙呂宮・黄鐘宮、雞識旦には越調・大食調・高大食調・雙調・小食調・歇指調・林鐘商調、沙識旦には大食角・高大食角・雙角・小食角・歇指角・林鐘角・越角、沙侯加濫旦には中呂調・正平調・高平調・仙呂調・黄鐘調・般渉調・高般渉調がある。この四旦二十八調は黍律を用いず琵琶の絃で調律し、みな濁より清に至るまで音を移し変えて、下は益々濁く上は益々清くなる。七七四十九調のうち残り二十一調は伝わらず、九部楽の亀茲部から出たものであろう。
大楽の声・各調の中の度曲協音の声には、五・凡・工・尺・上・一・四・六・勾・合の十があり、雅律の十二律呂に対しそれぞれ一つ欠けているのは、なお雅音が商音に及ばないのと同じである。
散楽
殷人が靡靡の楽を作り、その声は往って反らず、これが鄭衛の声として流れた。秦漢の間には秦楚の声が起こり、鄭衛の声は次第に亡んだ。漢の武帝は李延年に楽府を典(つかさど)らせ、次第に西涼の声を用いるようになった。今の散楽は俳優の歌舞が雑然と進むもので、しばしば漢楽府の遺声である。晋の天福三年、劉昫を遣わし伶官をもって遼に帰させたが、遼の散楽はおそらくこれに由来する。
遼の冊皇后儀では、百戲・角觝・戲馬を披露して楽しみとする。
皇帝生辰の楽次は、酒一巡目に觱篥が歌を起こし、二巡目に歌手・伎が入り、三巡目に琵琶を独奏し餅茶の致語があり食が入り雑劇が進む。四巡目は(欠く)。五巡目には笙を独吹し鼓笛が進む。六巡目には箏を独奏し築毬を行う。七巡目には歌曲が破れ角觝を行う。
曲宴宋国使の楽次は、酒一巡目に觱篥が歌を起こし、二巡目に歌、三巡目に歌手・伎が入り、四巡目に琵琶を独奏し餅茶の致語があり食が入り雑劇が進む。五巡目は(欠く)。六巡目には笙を独吹し法曲に合わせる。七巡目には箏を独奏する。八巡目には歌に合わせ架楽を撃つ。九巡目には歌が破れ角觝を行う。
散楽は三音をもって三才の義に該当させ、四声をもって四時の気に調和させ、十二管の数に応じて竹を截り四つの竅(あな)のある笛を作り音声を調え絃歌に被せる。三音とは天音(揚)・地音(抑)・人音(中)で、いずれも声があり文(旋律の形)はない。四時では、春の声を平、夏の声を上、秋の声を去、冬の声を入という。
散楽の楽器には觱篥・簫・笛・笙・琵琶・五絃・箜篌・箏・方響・杖鼓・第二鼓・第三鼓・腰鼓・大鼓・鞚拍板がある。
雑戯の演目は、斉の景公が倡優・侏儒を用いたことに始まり、漢の武帝に至って魚龍曼延の戯が設けられ、後漢には繩舞・自刳の伎が起こった。杜佑はこれらの多くを幻術とし、いずれも西域から出たとした。哇俚(俗っぽく卑俗)で経(義理)に合わないため、詳しくは述べない。
鼓吹楽
鼓吹楽は一に短簫鐃歌楽といい、漢よりこれがあり軍楽と呼ばれた。遼の雑礼では朝会に熊羆十二案を設け、法駕には前後部の鼓吹があり、百官の鹵簿にもみな鼓吹楽がある。
前部には、鼓吹令二人、掆鼓十二、金鉦十二、大鼓百二十、長鳴百二十、鐃十二、鼓十二、歌二十四、管二十四、簫二十四、笳二十四がある。
後部には、大角百二十、鼓吹丞二人、羽葆十二、鼓十二、管二十四、笛二十四、鐃十二、鼓十二、簫二十四、笳二十四がある。
前後の鼓吹は、行幸の際は導駕に奏し、朝会では仗を列べて設けるが奏さない。
横吹楽
横吹もまた軍楽で、鼓吹と部を分けるが同様の位置づけにあり、みな鼓吹令に属する。
前部には、大横吹百二十、節鼓二、笛二十四、觱篥二十四、笳二十四、桃皮觱篥二十四、掆鼓十二、金鉦十二、小鼓百二十、中鳴百二十、羽葆十二、鼓十二、管二十四、簫二十四、笳二十四がある。
後部には、小横吹百二十四、笛二十四、簫二十四、觱篥二十四、桃皮觱篥二十四がある。
百官の鼓吹・横吹楽は四品以上でその名に増減があり、儀衛志に見える。周の衰えとともに先王の楽は次第に亡び欠け、周南は変じて秦風となり、始皇が天下を得ると鄭・衛・秦・燕・趙・楚の声が次々と進み雅声は亡んだ。漢唐の盛時、文事の多くは西方の音であり、これが大楽・散楽となった。武事はみな北方の音であり、これが鼓吹・横吹楽となった。雅楽が残るものはその楽器は雅であっても、その音もまた西方に由来するという。