閏法の意義
- 太陰暦は月の日数に朔虚(不足)が生じ、太陽の運行には気盈(余り)が生じる。この盈虚のずれが積み重なると寒暑の順序が乱れ、五穀が実らず、政治も乱れる。そこで聖人は北斗七星の柄の向きを観測し、歳星(木星)を基準として閏月を置く法を定め、これによって百官を治めた。閏が正しければ月が正しく、月が正しければ年が正しい。年月が正しくなって初めて政令の頒布や官吏の考課も時宜にかなう。国史が年を単位に事を記すうえで、閏法の正しさほど重要なものはない。
- 遼は建国当初から暦法を求めた。後梁・後唐を経て後晋の代に入ったのち、ついに帝制を備えるに至り、乙未暦の暦法も二度改められた。
- 穆宗応暦六年(956年)、後周は顕徳欽天暦を用いた。
- 応暦十年(960年)、宋は建隆応天暦を用いた。
- 景宗乾亨四年(982年)、宋は乾元暦を用いた。
- 聖宗統和十九年(1001年)、宋は儀天暦を用いた。
- 太平元年(1021年)、宋は崇天暦を用いた。
- 道宗清寧十年(1064年)、宋は明天暦を用いた。
- 大康元年(1075年)、宋は奉元暦を用いた。
- 大安七年(1091年)、宋は観天暦を用いた。
- 天祚皇帝乾統六年(1106年)、宋は紀元暦を用いた。
- この後に各年の閏月を列記した閏考の表が続くが、底本では該当箇所が丁数(頁)の区切り記号のみが残り、本文(数値表)が伝わっていない。