朔考を作った理由
- 古代、太史は年を掌り、年をもって事を記述した。国史は事をもって日をつなぎ、日と月と時をもって年をつないだ。時と月が正しくなければ事の記述も一定しない。それゆえ天文を司る職と記録を司る職の二つは、一つの官に合わされた。暦を頒布し時を授けるには、必ず天下を統一する大きな基準が要る。遼・漢(後漢)・周(後周)・宋はいずれも夏正(夏暦)を用いたが、それぞれ独自の暦を立てたため、国史の閏月・朔日の記載にはかなりの異同がある。
- 遼は建国当初、乙未元暦(何承天の元嘉暦を基とする暦法)を用い、のちに大明暦(祖冲之の甲子元暦を基とする暦法)を用いた。何承天の暦は、日食・晦朔について十九年(一章)に必ず七回の閏を置くとし、祖冲之の暦は、日食は必ず朔日に起こるとして、あるいは四年に一度の閏とする。乙未暦を用いた期間は後漢・後周の暦とおおむね同じであったが、大明暦を用いた期間は時に宋の暦と異なった。国史の記述で干支(甲子)に相違はないが、閏月・朔日にはしばしば差異があるのはこのためである。
- 耶律儼の紀は大明暦法によって乙未暦時代の月朔をさかのぼって正したが、これは陳大任の紀としばしば食い違い、考証にあたる者をしばしば戸惑わせてきた。五代の『職方考』が契丹の州軍を記す例にならい、本志では「朔考」を作り、暦の方式が異なる場合は「異」、伝わる中で誤って伝わった場合は「誤」と記した。遼史の本紀に書かれていない国・耶律儼・陳大任それぞれの説を並べて掲げ、国名を冠して朔の異同を注記し、後に併せて記す。
- この後に朔日の異同を年ごとに列記した表が続くが、底本では該当箇所が丁数(頁)の区切り記号のみで、本文(数値表)が伝わっていない。
宋との暦の照合
- 宋の元豊元年(1078年)十二月、宋は司天監に詔して遼・高麗・日本の暦を奉元暦と比較させ、異同を調べさせた。遼の己未の年は気朔が宣明暦と合致し、日本の戊午の年は遼の暦と近かった。高麗の戊午年は朔が奉元暦と合致したが、気には違いがあった。戊午は遼の太康四年(1078年)、己未は太康五年(1079年)にあたる。遼と宋の時代、両国の司天(天文官)は互いに参考にし合っていたのである。
- 高麗が進呈した「大遼事蹟」には諸王の冊立の文書が載せられており、月朔の記載がしばしば見えるので、これを付け加えて収める。
天体観測器具(象)
- 孟子は「天の高きも星辰の遠きも、その理をつきつめれば、千年後の冬至の日でさえ座ったまま算出できる」と説いた。聖人の用心はまことに広大にして精微、至れり尽くせりというべきである。日には日影があり、月には満ち欠けがあり、北斗には建除(十二辰の消長)があり、星には昏旦(出没の時刻)がある。天の変化を観測するために器具を作ってこれをうかがった。八尺の表(日時計の棒)、六尺の筒(望筒)、百刻の漏(水時計)によって日月星辰の運行を掌上に示し、運行と度数を審らかにした。
- そこで天球をかたどって運行を示す渾象を作り、地櫃(大地を表す台)を設けて出入りを検証した。これは天道の恒常を表すもので、尺寸の中に陶唐(堯)の時代の天文観測の様子をうかがい見ることができる。三つの環(三儀)を設けて度数を明らかにし、一本の衡を管で通して北極の位置を正す渾儀を作った。これは天文の変化を表すもので、天地四方の外に有虞(舜)の璣衡(天文観測儀)を仰ぎ見ることができる。
- 素材としては金属ほど堅固なものはなく、動力としては水ほど利便なものはない。金属を鋳て水を走らせれば、戸外に出ずして天道を知ることができる。これこそ聖人が聖人たる所以である。歴代の儀象・表・漏刻についてはそれぞれこの志に記す。
- 太宗大同元年(947年)、遼は晋(後晋)の暦象・刻漏・渾象を得たが、後唐清泰二年(935年)の時点で既に「損折して使用に堪えない」と称されていたものであり、それが中京に至った頃にはおおよその状態が知れよう。古の鍊銅は、黒・黄・白・青の気(不純物)を尽く除いてから用いたので、長く使用に耐えた。唐の僧一行が鋳た渾天儀は当時精妙と称されたが、まもなく銅鉄が渋って自転しなくなり、放置されて再び用いられなくなった。金属の質が精良でなければ水の性質も行われず、まして極寒の地に移せばなおさらである。
刻漏
- 後晋の天福三年(938年)に作られた。『周官』の挈壺氏(漏刻を掌る官)は、壺を懸けるにあたって必ず火で温めたとある。大地が凍りつくほど寒くとも、火で温めれば使用できたのであろう。
官星
- 古代、星官(星座に配された官職名)は一万余りあったが、秦の焚書に遭って図籍が失われ、世に秘されて伝わらなくなった。漢代になって散逸したものを収集し、甘徳・石申・巫咸の三家の図経を得て、経星・緯星合わせて千余の官を得たが、それでも十分の一が残るのみであった。これを三垣・四宮・二十八宿に分け、南北の二極を枢とし、北斗を基準とし、五星(金木水火土)・日月を緯として交互に明るさを示した。尊いものは太一とされ、卑しいものに至るまで、占いに用いる細々としたものまで備わっていたという。
- 司馬遷の『天官書』が既にこれを詳しく記録しており、後世の保章氏(天文観測官)が守り伝えるところも、この三家の星官の範囲を出ない。天象は歴代を通じて変わらず示されてきたが、漢・晋・隋・唐の史書がそれぞれ天文志を重ねて記すのは、いささか冗長に流れている。また天象・禨祥(吉凶の兆し)は律令上禁書とされる規定が前朝の史書にあり、学者を誤らせるので書くべきではない。日食・星変・風雲・地震・雪などの祥異は帝紀にすべて載せてあるので、ここには重ねて書かない。