遼史卷四 本紀第四 太宗下

會同元年(938年)

  • 正月、後晉および諸国が新年を賀す使者を送り、晋使は和凝に聖徳神功碑を撰させたと伝えた。以後も晋・室韋・鐡驪・女直・吐谷渾・南唐・黒車子室韋などが頻繁に朝貢し、上(太宗)は幽州・遼河東などへ巡幸を重ねた。
  • 五月、晋が再び尊号を奉ることを請い、これを許した。七月、晋へ馬を賜い、中臺省右相耶律蘇哷特爾格と臨海軍節度使趙思温を晋に遣わして晋帝を英武明義皇帝に冊立させた。
  • 九月、晋の馮道・韋勲が皇太后に、劉煦・盧重が皇帝にそれぞれ尊号を奉る使者として来た。十一月、開皇殿で晋使に宴を賜い、皇太后は開皇殿で馮道・韋勲より尊号「廣徳至仁昭烈崇簡應天皇太后」を受け、再生柴冊礼を行った。皇帝も宣政殿で劉煦・盧重より尊号「睿文神武法天啓運明徳章信至道廣敬昭孝嗣聖皇帝」を受け、大赦して會同と改元した。
  • 同月、晋の趙瑩が幽薊瀛莫涿檀順媯儒新武雲應朔寰蔚の十六州とその図籍を献上した。これにより皇都を上京臨潢府とし、幽州を南京、旧南京を東京とし、新州を奉聖州、武州を歸化州と改称、北南院・伊實額爾竒木を王に、主簿を令に、令を刺史に、刺史を節度使に格上げするなど官制を全面的に改めた。十二月、晋に使者を遣わし、馮道を守太傅、劉煦を守太保に加える制を下した。

二年(939年)

  • 正月、受冊の礼により南唐・高麗へ報使を送った。晋の馬従斌・劉知新が来貢し、幣を群臣に分賜した。二月、諸王・節度使に受冊礼を賀う宴を賜い、太子特哩衮達年に餞させた。三月、太祖廟に謁し、京師の吏民や内外群臣に物・官賞を賜った。皇子舒嚕を夀安王、雅斯哈を太平王に封じた。
  • 六月、南京での牝羊売買を禁じ、薩納噶多囉らを官物盗みの罪で家財没収とした。閏七月、敞史阿巴を使者としての失職の罪で笞刑に処し、伊實大王を賦調不均の罪で木剣で背を打って釈放、南北府の民に対する非制の負担を罷めた。九月、南王府の二刺史を貪婪の罪で杖百とし虞候帳に繋いだ。八月、晋から歳幣が燕京に届いた。十二月、土河で釣魚をし、回鶻使の従者同士の刃傷沙汰を処断した。

三年(940年)

  • 正月、吴越王・南唐が来貢し、人皇王妃が朝した。回鶻使に諸国使の朝見の礼を見せることを許した。晋へ生辰の礼を送り、晋は并・鎮・忻・代の地を献じた。二月、奚王喇呼鼐が朝貢し、烏爾古が伏鹿国の捕虜を献じてその功を旌した。三月、南京への巡幸に先立ち先駆・監軍を配し、党項討伐の戦果が上奏された。四月、燕(南京)に至り元和殿で入閤の礼を行った。
  • 五月、南唐が白亀を献上した。端午の宴で回鶻・燉煌の使者に本俗の舞を披露させた。六月、東京宰相耶律伊濟が渤海相大素賢の不法を訴え、部民から有徳者を挙げ代えさせる詔が出た。七月、皇太后のもとで人皇王妃蕭氏の病を見舞ったが、妃は薨じた。安重榮が鎮州で晋に叛いたため征南将軍柳嚴に辺備を命じた。晋は南郊の礼の挙行を請い、許した。八月、東丹の吏民に王妃蕭氏の喪服を命じた。伊竒哩河・臚朐河の地を南北院の農田として給付した。九月、晋主が狩猟を控えるよう諫めたのに対し、上は狩猟は武事の練習であると答えた。十月、晋が布や南嶽親祠の許可を求め、これを許した。十一月、南唐が晋の密事を蠟丸書で伝えた。姉が亡くなった妹が代わりに嫁ぐ法を廃す詔を下した。十二月、太祖行宮に謁し燔柴の礼を行い、契丹人で漢官を授かる者は漢の儀に従い漢人との婚姻を許す詔を下した。燕京皇城西南の堞に涼殿の造営を命じた。

四年(941年)

  • 正月、伊實・彭布托果三部の鰥寡孤独の者に配偶をあてがう詔を下した。南唐・納拉威部・鐵驪などが来貢。二月、始祖竒善汗の事跡を編述させる詔を下したが、この月晋の楊彦詢が鎮州の安重榮の跋扈を告げ、鎮州は遼の使者伊喇を捕らえた。六月、朔州の節度副使趙崇が節度使耶律華喇を逐って晋に叛いたため、宣徽使尼古察に朔州を包囲させた。七月、朔州攻城の将校に晋の貢物を賜った。八月、南京路で狼が人を食うとの奏があった。九月、晋の分野に彗星が現れた。十月、燕薊で大豊作の奏があった。十一月、晋が安重榮討伐を告げ、吐谷渾が降を請うたので撫諭した。十二月、晋が山南節度使安従進の反乱を告げ、便宜討伐を命じた。晋が安重榮討滅を告げると楊彦詢を帰し、晋が撤兵を乞うたので特哩衮碩格に班師を命じた。朔州を陥したが、宣徽使尼古察が戦死したため城中の丁壮を誅し叛民の上戸三十をその部曲に充てた。

五年(942年)

  • 正月、直言を求める詔を下し、北王府郎君耶律哈斯が応じて宣徽使に抜擢された。政事令僧隱らに契丹戸を南辺へ分屯させた。晋が安重榮の首を献じたが、上は自ら親征する意を止めた。晋が朔州平定を賀い、耶律華格を生辰の礼とともに遣わした。二月、南幸の議で太子・群臣は吐谷渾がなお安重榮の誘いに応じて帰順しないとし、討伐を建議、上もこれに同意し明王温の代わりに裕悦新を西南路招討使として討伐させた。
  • 六月、晋の齊王重貴が使者を送って責め、乙丑、晋主敬瑭が崩じ子重貴が立った。晋は喪を告げ、遼は輟朝七日、弔祭の使者を送った。七月、晋の梁言・朱崇節が来て「孫」と称し「臣」と称さなかったため、喬榮に景延廣を詰らせたが、延廣は「先帝は朝廷が立てたが今主は自立であり、孫としてなら奉表できるが臣とは称せない」と答え、これにより上は南伐の意を抱いた。九月、遼の将軍が晋の投降将希達を献じた。十月、河東節度使劉知逺に叛臣の護送を命じた。十一月、晋帝嗣位を賀う使者を送った。十二月、党項討伐の将軍を遣わした。

六年(943年)

  • 二月、晋が先帝の遺物を献じ、汴に居することを請い許した。三月、晋が汴に至り謝使を送った。五月、晋に生辰の礼を送った。八月、晋がまた金を貢した。九月、晋の子延煦が来朝した。十一月、上京留守耶律達年が晋に異心ありと知った。十二月、南京に至り晋討伐を議し、趙延夀・趙延昭・安圗嘉哩らに滄・恒・易・定より分道して進軍させ、大軍がこれに続いた。

七年(944年)

  • 正月、趙延夀・延昭が前鋒五万騎で任邱に至り、安圗が鴈門から忻・代を包囲、趙延夀は貝州を包囲し、その軍校邵珂が城門を開いて遼軍を迎え太守吴巒は投井して死んだ。延夀に魏博等州節度使を授け魏王に封じた。晋は舊好を修めることを求め、桑維翰・景延廣を遣わして議を交わした。
  • 二月、博州を陥し晋の平盧軍節度使楊光逺が密かに道を示して遼軍を渡河させたが、以後の交戦では晋兵に薄られ遼軍は不利となった。三月、趙延夀の進言により澶淵へ進軍、遼軍は東西より晋軍を挟撃、諜報を得て晋軍の東面の手薄をついて急撃し大敗させた。夏四月、南京に還り、涼陘に幸した。五月、耶律巴哩岱が德州を破り刺史尹居藩以下を捕らえた。
  • 七月、晋の楊光逺が蠟丸書を献じ、晋の張暉は乞和の表を奉じたが留められた。八月、回鶻の請婚を許さず、大同軍節度使耶律恭噶が鎮州兵の襲撃を大破した。九月、諸道兵を徴発した。十二月、南伐し、閏月、温榆河で諸道兵を閲し恒州を囲んでその九県を下した。

八年(945年)

  • 正月、邢・洺・磁三州を分兵で攻め、鄴都境に入り、安陽水南で皇甫遇らと激戦した。二月、魏を包囲、晋将杜重威が救援に来た。三月、祁州を陥し刺史沈斌を殺し、泰州を攻めて杜重威・李守貞を陽城まで追撃し大破、方陣を組んだ晋軍と数十合の激戦を重ねた。
  • 白團衞村で晋兵を包囲したが大風の夜、鹿角を抜いて奇襲するも風向きが変わって形勢不利となり、上は奚車で退いた。晋の追撃は急で橐駞に乗って辛くも帰り、晋兵は定州に退いた。四月、南京に還り、戦不利の者を杖し、将士に宴を賜った。
  • 七月、晋の孟守中が請和の表を奉じたが前事をもって答えた。九月、赤山で従臣に軍国の要務を問い「民を愛するを本とし、民富めば兵足り、兵足れば国強し」との答えを得た。十月、木葉山を祠った。

九年(946年)

  • 三月、吐谷渾の生口千戸を献じた蘇哷を檢校司空とした。五月、易州の戍将孫方簡が内附を請うた。六月、祖陵に謁して閟神殿を長思と改めた。八月、自ら南伐した。九月、趙延夀が晋の張彦澤を定州で破った。十一月、鎮州を包囲、杜重威が中渡橋に拠るも遼軍に大敗して梁漢璋を討ち取り、義武軍節度使李殷が城を降した。夜渡河して欒城を降し、晋軍を糧道から遮断した。十二月、杜重威・李守貞・張彦澤らが二十万衆を率いて降った。重威に守太傅鄴都留守、守貞に天平軍節度使を授け、降卒を趙延夀らに分けた。嘉哩・富珠哩・張彦澤を汴に入らせて晋帝母李氏を諭させ、桑維翰は張彦澤に殺されたが、上はこれを厚く弔い田園・宅地を復した。晋帝重貴母子は封邱門で降を待ち、上は憐れんでこれを封禪寺に館させた。景延廣は康祥に捕らえられ、牙籌でその罪八条を数えて護送中に自殺した。

大同元年(947年)

  • 正月、法駕で汴に入り崇元殿で百官の賀を受けた。劉敏を開封府知事とし、楊承勲を平盧軍節度使として父の爵を襲がせた(父楊光逺は青州で内附を求めたが承勲がこれを妨げたため誅す)。張彦澤は開封で桑維翰を殺すなど不道の罪により市で斬られた。晋帝重貴を負義侯に降封した。張礪を平章事、晋の李崧を樞密使、馮道を太傅、和凝を翰林學士、趙瑩を太子太保などに任じた。
  • 二月、趙瑩・馮玉・李彦韜に三百騎を率いさせ、負義侯とその母李氏・太妃安氏・妻馮氏らを黄龍府に安置し、宮女・宦官・医官・楽人ら多数を従わせた。国号を大遼と建て、大赦して大同と改元し、鎮州を中京に昇格させ趙延夀を大丞相・政事令・中京留守とした。劉知逺が河東で自立して漢と号したため、耿崇美・高唐英・崔廷勲らをそれぞれ要地の節度使に任じて備えさせた。
  • 三月、蕭翰を宣武軍節度使とし、磁州帥梁暉が相州を漢に降したため高唐英に討伐を命じた。四月、汴州を発ち、馮道・李崧・和凝らを従えた。上は「縦兵掠芻粟」「括民私財」「諸節度を速やかに帰鎮させなかった」の三失を自ら省みたが、帰順した地は七十六処・戸百九万余に及び、汴州の炎熱で長く留まれず、中京を置いて巡幸に備えたと語った。高邑で発病し、欒城で崩じた。年四十六。
  • 九月、鳳山陵(懐陵)に葬り、廟号を太宗とした。統和二十六年(1008年)七月に孝武皇帝、重熙三十一年(1062年)九月に孝武惠文皇帝と諡を増した。

史論

  • 太宗は多方を平定して遠近を帰化させ、国号を建て典章を備え、庶政を整えて名実を録し、囚徒を教えて耕織させ、鰥寡を配し、直言を求めて郎君哈斯を宣徽使に抜擢するなど、威徳兼備の英略の主であった。しかし入汴後には駆り立てた三失があり、鄭伯の善処や秦誓の悔過の故事に通じるものがあった、と評される。