出自と生い立ち
- 世宗孝和莊憲皇帝は諱を阮、小字を烏雲といい、讓國皇帝(人皇王)の長子。母は柔貞皇后蕭氏。儀観豊偉で内は寛、外は厳しく、騎射を善くし施しを楽しんだため人望を集めた。太宗は実子のように愛し、會同九年(946年)の晋討伐に従わせた。
大同元年(947年)
- 二月、永康王に封じられた。四月丁丑、太宗が欒城で崩じ、翌戊寅、梓宮が鎮陽に至ったところで柩前で皇帝位に即いた。甲申、天徳碩格嘉哩らに梓宮を先に上京へ護送させたところ、太后(述律太后)は帝の即位を聞き太弟魯呼に兵を率いて拒ませた。
- 六月、南京に至ると、五院額爾竒木安圖・詳衮瑠格が使者を送り前鋒となることを請い、泰徳泉で魯呼軍と戦いこれを破った。郎君勤徳らを両軍に遣わして和解を諭した。閏七月、潢河に至ると太后・魯呼が横渡で対陣、数日相持したが烏哲の計により双方兵を罷めて上京へ赴いた。太后・魯呼になお異謀ありと聞き、太后を祖州に遷し、司徒華沙・春博里を誅した。
- 八月、母蕭氏を皇太后に尊び、太后の一族拉珠薩哈廉を国舅帳とし詳衮を立てて総轄させ、崇徳宮戸を翼戴の功臣や北南院大王らに分賜し、非罪で籍没された徳哷塔拉の子孫にも財産を返した。北院樞密使を初めて置き安圖を任じた。九月、太宗(嗣聖皇帝)を懐陵に葬り、柴冊礼を行って群臣より尊号「天授皇帝」を受け、大同元年を天禄元年と改め大赦、皇考(人皇王)に讓國皇帝の諡を追贈し、安圖に東丹国を主らせ、明王察克を泰寧王、瑠格を特哩衮、勲を南院樞密使とした。
二年(948年)
- 正月、天徳・蕭翰・瑠格・璸都らの謀反が発覚し、天徳を誅し蕭翰を杖し瑠格を辺境へ遷し璸都を罰した。漢主劉知逺が崩じ子承祐が立った。四月、南唐が慰問と祝賀の使者を送り、漢討伐を議す蠟丸書を献じた。七月、皇子賢が生まれた。十月、南京留守魏王趙延夀が薨じ、中臺省右相徳哷を南京留守・燕王とした。
三年(949年)
- 正月、蕭翰と公主額伯哩の謀反が発覚し翰は誅殺、額伯哩は獄中で瘐死した。庚申、大赦して内外官に一階を進めた。六月、敞史耶律古爾錦を北院大王とし、特哩衮托雲を漆水郡王に封じた。九月、群臣を召し南伐を議した。十月、諸将に貝州・高老鎮を攻めさせ、鄴都・南宮・堂陽を略し、深州刺史史萬山を殺し捕獲多数を得た。
四年(950年)
- 二月、泰寧王察克が来朝して留まった。この月、政事省を建てた。三月、南唐が南征の勝利を賀う使者を送った。九月、山西に行幸した。十月、自ら南伐し安平・内丘・束鹿等城を陥して大いに得るところがあり帰還した。この年、皇后蕭氏を冊立した。
五年(951年)
- 正月、百泉湖に幸した。漢の郭威が主を弑して自立、国号を周と建て、朱憲に告げさせたのに対し良馬を賜った。漢の劉崇は太原で自立した。二月、周が姚漢英・華昭𦙍を遣わして礼を抗するに書を用いたため、これを留め置いた。五月、太子太傅趙瑩が薨じ輟朝一日、汴へ帰葬させた。州県の録事参軍・主簿の人事を政事省の詮衡に委ねる詔を下した。六月、劉崇が周に攻められ姪と称して援を乞い封冊を求めたため、燕王徳哷・樞密使髙勲を遣わして大漢神武皇帝に冊立した。南唐は蔣洪を遣わして援兵を乞うた。
- 九月、自ら南伐し、行宮で讓國皇帝を祭る際、群臣が皆酔い、察克が反して帝は弑された。年三十四。應暦元年に顯州西山陵(顯陵)に葬られ、二年に孝和皇帝と諡され、廟号を世宗とした。統和二十六年(1008年)七月に孝和莊憲皇帝と諡を加えた。
史論
- 世宗は中才の主であった。大統を継いで三年に満たぬうちに南唐の蠟丸書を納れて南伐を議し、持重を欠き周防を怠ったのは禍を招く道であったが、孝友寛慈の徳もあり君主としての度量があった。師の帰還を待たず酒に沈湎した中で変が起きたのは哀しむべきことである、と評される。