遼史卷三 本紀第三 太宗上

出自と生い立ち

  • 太宗孝武恵文皇帝、諱は徳光、字は徳謹、小字は耀庫済。太祖の次子で母は淳欽皇后舒嚕氏。唐の天復2年(902年)生まれ。神光が異常で、猟師が白鹿・白鷹を得たことが瑞兆とされた。成長すると容貌は厳重で性は寛仁、軍国の事の多くを取り決めるようになった。天贊元年(922年)、天下兵馬大元帥を授けられ六軍を統べて南征、翌年(923年)平州を下し趙思温・張崇を捕らえ、箭笴山で呼遜奚諸部を破ってことごとく降し、さらに鎮・定を掠めるが敵は堅壁して戦わなかった。幽州に至ると符存審が城南で拒むが縦兵で邀撃し大破、裨将裴信ら数十人を捕らえた。太祖に従い伊竒哩諸部を破り、河壖の党項を平定し、山西諸鎮を下し、回鶻単于城を取り、東は渤海を平らげ達囉克部を破るなど東西万里に功を挙げた。
  • 天顕元年(926年)7月太祖崩御、皇后が軍国事を摂す。明年(927年)秋、祖陵の造営を終え、冬11月壬戌、人皇王貝が群臣を率い皇后に「皇子大元帥は勲望が内外に集まっており、大統を承けるにふさわしい」と請い、皇后がこれに従い、この日太宗が即位した。

天顕二年(928年)(太宗の即位)

  • 癸亥、太祖廟に謁す。丙寅、柴冊礼を行う。戊辰、都に還る。壬申、宣政殿にて群臣が尊号「嗣聖皇帝」を上り大赦、有司が改元を請うが許さず。12月庚辰、皇太后を太皇太后、皇后を応天皇太后と尊称し、妃蕭氏を皇后に立てる。礼が終わり近侍の班局を閲す。辛巳、諸道の将帥が辞して鎮に帰る。己丑、天地を祭る。庚寅、諸国に使者を遣わし諭す。辛卯、近郊で羣牧を閲す。戊戌、女直が来貢。壬寅、太祖廟に謁す。甲辰、旗鼓・客省の諸局官属を閲す。丁未、約尼氏九帳の子弟で任官できる者を選ぶ詔。

天顕三年(929年)

  • 春正月己酉、北剋の兵籍を閲す。庚戌、南剋の兵籍を閲す。丁巳、皮室・伊喇摩哩の三軍を閲す。己未、黄龍府・羅寧河の女直達囉克が来貢。庚午、王郁を興国節度使・守中書令とする。2月、長濼に幸す。己亥、特哩衮尼嚕古が白狼を進上。辛丑、達囉克が来貢。3月乙卯、東方に狩り。癸亥、羖䍽山で狩り。乙丑、松山で狩り。唐の義武軍節度使王都が人を遣わし定州をもって帰属を願い出るが、唐主が討伐の軍を出すと援を乞い、奚の図哩塔拉に救援を命じる。夏4月戊寅、東方を巡る。己卯、麃鹿の神を祭る。丁亥、猟場で公私に羽毛・革・木材を取らせる。甲午、赤山で矢材を取る。丙申、三山塔拉で王晏球を定州で破るが、唐兵が大挙して集まり、塔拉が急ぎ援兵を請い、辛丑、特哩衮尼嚕古・都統扎拉に赴かせる。5月丙午、天膳堂を建てる。索囉山で狩り。戊申、狩りより帰還。丁卯、林牙図魯卜に烏爾古部の討伐を命じる。己巳、女直が来貢。6月己卯、色克色哩の礼を行う。秋7月丁未、図魯卜が捷を献ず。壬子、王都が唐兵に定州を破られ塔拉が戦死、尼嚕古・扎拉ら数十人が捕らえられたと奏す。太宗は出師の時機を誤ったことを深く悔い、戦没した将校の家を厚く賜う。庚午、太祖廟に事あり。8月丙子、突厥が来貢。庚辰、応天皇太后誕聖碑を儀坤州に建てる詔。9月己卯、図魯卜が烏爾古の俘虜を献上。癸未、群臣に分賜する詔。己丑、人皇王貝の邸に幸す。庚寅、唐に使者を遣わす。辛卯、再び人皇王邸に幸す。癸巳、有司が太宗の誕生日を「天授節」、皇太后の誕生日を「永寧節」とすることを請う。冬10月癸卯朔、永寧節にて群臣と延和宮で寿を上げる。己酉、太祖廟に謁す。唐が使者を遣わし玉笛を贈る。甲子、天授節、太宗は五鸞殿で群臣・諸国使の賀を受ける。11月丙子、布古徳が来貢。辛丑、自ら唐討伐に出る。12月癸卯、天地を祭る。庚戌、唐主が再び使者を遣わすと聞き、左右は「唐がしばしば使者を送るのは畏威のためであり、軽々に動くべきでない、釁を観て動くのがよい」と述べ、太宗もこれに同意。甲寅、杏堝に至ると唐の使者が来たため班師。この時人皇王は皇都におり、耶律伊済を遣わし東丹の民を東平に移し実たす詔を下すが、その民の一部は新羅・女直に逃れ、困乏で移せない者は上国の富民に給贍させ隷属させる。東平郡を南京に昇格する。

天顕四年(930年)

  • 春正月壬申朔、群臣・諸国使を宴し俳優角觝の戯を観る。己卯、瓜堝に行く。2月庚戌、約尼氏の戸籍を閲す。3月甲午、羣神を望祀。夏4月辛亥、瓜堝より帰る。壬子、太祖廟に謁す。癸丑、太祖の行宮に謁す。甲寅、天城軍に幸し祖陵に謁す。辛酉、人皇王貝が来朝。癸亥、囚人を録す。5月癸酉、二儀殿に謁し群臣を宴す。女直が来貢。戊子、太祖行宮で柳を射る。癸巳、色克色哩の礼を行う。6月丙午、図魯卜が烏爾古の俘虜を献じ将士に分賜。己酉、西巡。己未、軽騎数千を選んで近山で狩り。癸亥、涼陘に駐蹕。秋7月庚辰、市を観て繋囚を赦す。甲午、太祖を祠って東に向かう。8月辛丑、涼陘に至り太祖廟に謁す。癸卯、人皇王邸に幸す。己酉、太祖廟に謁す。9月庚午、南京へ向かう。戊寅、木葉山を祠る。己卯、再生の礼を行う。癸巳、南京に至る。冬10月壬寅、人皇王邸に幸し群臣を宴す。甲辰、諸営に幸し軍籍を閲す。庚戌、雲中の郡県が未だ下らないため六軍を大いに閲す。甲子、皇弟魯呼に師を率い雲中に赴かせ未帰服の郡県を討たせる詔。11月丙寅朔、出師を天地に告げる。丁卯、皇弟魯呼を西郊で餞す。壬申、大内特哩衮に太祖行宮で出師を告げさせる。甲申、三义口で漁を観る。12月戊申、女直が来貢。戊午、南京より帰還。

天顕五年(931年)

  • 春正月庚午、皇弟魯呼が寰州を抜いたとの捷報。甲午、皇太后に朝す。2月己亥、南京の修築を詔す。癸卯、魯呼が雲中より帰り行在に朝す。丙午、先に俘虜とした渤海の戸を魯呼に賜う。丙辰、太宗と人皇王が皇太后に朝すと、太后は二人とも書に巧みであるとして前で書かせて観覧。辛酉、群臣を召し軍国事を議す。3月丙寅、皇太后に朝す。丁卯、皇弟魯呼が宗室錫里の郎君で罪により繋獄された者の赦免を請い、太宗はこれに従う。己巳、皇叔安図の邸に幸す。辛未、人皇王が白紵を献ず。乙亥、皇弟魯呼を「寿昌皇太子」兼「天下兵馬大元帥」に冊立。壬午、龍化州節度使劉居言を同中書門下平章事とする。乙酉、人皇王の僚属を便殿で宴す。庚寅、南京を発つ。夏4月乙未、人皇王に先んじて祖陵に赴き太祖廟に謁させる詔。丙辰、祖陵で会し人皇王は帰国。5月戊辰、褭潭離宮の修築を詔す。乙酉、太祖廟に謁す。6月己亥、行在で柳を射て沿柳湖に赴く。丁巳、明殿で太祖の御容を拝む。己未、達魯特が来貢。秋7月壬申、烏爾古が来貢。戊子、太祖廟に時果を薦す。8月丁酉、大聖帝后の宴寝の所を「日月宮」と号し「日月碑」を建てる。丙午、九層台に幸す。9月己卯、錫里普寧を人皇王の撫慰に遣わす詔。庚辰、人皇王の儀衛を置く詔。丁亥、九層台より帰り太祖廟に謁す。冬10月戊戌、人皇王に胙を賜う使者を遣わす。癸卯、太祖聖功碑を舒伊旺尼珠琿温に建てる。甲辰、人皇王が玉笛を進上。11月戊寅、東丹が人皇王が海を渡って唐に赴いたと奏す。

天顕六年(932年)

  • 春正月甲子、西南辺将が慕化してきたハーガス国人を報告。乙丑、達魯特が来貢。丁卯、南京に向かう。3月辛未、大臣を召し軍国事を議す。丁亥、人皇王貝の妃蕭氏がその国の僚属を率いて謁見に来る。夏4月己酉、唐が使者を遣わし来聘。この月、中台省を南京に置く。5月乙丑、木葉山を祠る。乙亥、南京より帰る。壬午、太祖陵に謁す。閏月庚寅、近郊で柳を射る。6月壬申、涼陘に至る。壬午、烏爾古が来貢。秋7月丁亥、女直が来貢。己酉、将校に兵を南に率いて攻略させる。壬子、太祖廟に時果を薦し東に向かう。8月庚申、皇子舒嚕が誕生、太祖廟に告げる。辛巳、布古徳が来貢。9月甲午、京城の修築を詔す。冬10月丁丑、鉄驪が来貢。11月乙酉、唐が使者を遣わし来聘。12月甲寅朔、太祖廟を祭る。丙辰、詔書を送り唐の盧龍軍節度使趙徳鈞に賜う。

天顕七年(933年)

  • 春正月壬辰、征西将軍科里が伊喇多科を遣わし軍事を奏す。己亥、唐が使者を遣わし来聘。癸卯、唐に使者を遣わす。戊申、木葉山を祠る。2月壬申、伊剌迪里が呉越に使いし帰還、呉越王が使者を遣わし宝器を献じたので、再び使者を遣わし幣を持って報いる。3月己丑、林牙徳勒賓が乗輿を指斥したとして囚われる。丁未、諸国に使者を遣わす。戊申、群臣を率い皇太后に朝す。夏4月甲戌、唐が使者を遣わし来聘、人皇王貝の書を届ける。己卯、女直が来貢。5月壬午、祖州に幸し太祖陵に謁す。6月戊辰、太祖建国碑を御製する。戊寅、烏爾古・達魯特が来貢。庚辰、角觝の戯を観る。秋7月辛巳朔、内外の官吏に物を賜う。癸未、高齢者に布帛を賜う。丙戌、群臣・耆老を召し政を議す。壬辰、唐が使者を遣わし紅牙笙を贈る。癸巳、使者が再び至る(定州の役への報復を懼れたため)。壬寅、唐の盧龍軍節度使趙徳鈞が人を遣わし時果を進上。丁未、太祖廟に薦新。8月壬戌、沿柳湖で漁をしていた者が風雨で舟が覆り溺死者60余人を出し、その家を存恤し戒めとする。戊辰、林牙徳勒賓が逃亡した囚人を再び捕らえ鞫問すると誣構であったと分かり釈放。9月庚子、準布が来貢。冬10月乙卯、唐が使者を遣わし来聘。己巳、雲中に使者を遣わす。11月丁亥、呼哩国を存問する使者を遣わす。丁未、準布が海東青鶻30連を貢ぐ。12月辛亥、叛人尼嚕古の家口を群臣に分賜。丁巳、西方を狩り平地松林に駐蹕。

天顕八年(934年)

  • 春正月戊子、女直が来貢。庚子、皇太弟魯呼・左威衛上将軍色克に党項討伐を命じる。癸卯、太宗自ら餞す。2月辛亥、吐谷渾・準布が来貢。乙卯、剋舒嚕が唐より帰還し附献の物を群臣に分賜。3月辛卯、皇太弟が党項討伐に勝って還り宴労する。丙申、唐が使者を遣わし党項討伐の兵を罷めるよう請うが、太宗はすでに戦勝しており党項もすでに服したとして報いる。夏4月戊午、党項が来貢。5月己丑、独牛山で狩り、特哩衮達年の乗馬騮馬がここで斃れたため山を「騮山」と名づける。戊戌、沿柳湖に幸す。6月甲寅、準布が来貢。甲子、回鶻阿爾斯蘭が来貢。秋7月戊寅、納后の礼を行う。癸未、皇子特哩衮が誕生。丁亥、鉄驪・女直・準布が来貢。冬10月乙巳、準布が来貢。丙午、沿柳湖より帰る。辛亥、唐が使者を遣わし来聘。己未、巴拉を唐に遣わす。辛未、烏爾古図魯木が来貢。11月辛丑、太皇太后が崩じ、唐および人皇王貝に哀を告げる使者を遣わす。唐主嗣源が殂じ子の従厚が立つ。12月丁卯、党項が来貢。

天顕九年(935年)

  • 春正月癸酉、土河で漁をする。丙申、党項が駝・鹿を貢ぐ。己亥、南京が白麞を進上。閏月戊午、唐が使者を遣わし哀を告げると即日弟を遣わし弔祭。壬戌、東方に幸す。女直が来貢。2月壬申、木葉山を祠る。戊寅、太皇太后を徳陵に葬る(2日前に菆塗殿で発喪し太宗は喪服を着て送る)。後に諡を「宣簡皇后」とし陵に碑を建てる詔。3月癸卯、女直が来貢。夏4月、唐の李従珂が主を弑し自立、人皇王貝が唐より上書して討伐を請う。5月甲辰、沿柳湖に至る。癸丑、女直が来貢。大星が昼に隕ちる。6月己巳朔、布古徳が来貢。辛未、唐の李従厚の弔祭への謝使が初めて闕に至る。秋8月壬午、自ら南伐に将たる。乙酉、伊喇嘉哩が飛雁を手で受け止め、太宗はこれを異として天地を祭る。9月庚子、西南で星が雨のように隕ちる。乙卯、雲州に至る。丁巳、河陰を抜く。冬10月丁亥、霊丘を攻略、父老が牛酒を進めて師を労う。11月辛丑、武州の陽城を囲む。壬寅、陽城が降る。癸卯、斡斉爾城が降る。捕らえた壮丁を軍籍に組み入れる。12月壬辰、皇子安巴薩哈勒が誕生。皇后が体調を崩す。この月、百湖の西南に駐蹕。

天顕十年(936年)

  • 春正月戊申、皇后が行在で崩じる。2月戊寅、百僚が追諡の加上を請うが許さず。辛巳、宰相尼嚕古の南奔を謀る事が発覚し捕らえる。3月戊午、党項が来貢。夏4月、吐谷渾の酋長推勒伊徳が衆を率いて内附。丙戌、皇太后の父族と母の前夫の族の二帳をあわせて国舅とし、蕭黙色を尚父としてこれを領させる。己丑、囚人を録す。5月甲午朔、初めて喪服の制を定め皇后の喪を行う。丙午、奉陵に葬り太宗自ら文を製し諡を「彰徳皇后」とする。癸丑、錫里王庭鶚を龍化州節度使とする。6月乙丑、托歓が来貢。辛未、頻布里淀に幸す。秋7月乙卯、納卜斉山で狩り。冬11月丙午、弘福寺に幸し皇后のため僧に施し、観音の画像を見る(大聖皇帝と応天皇后と人皇王が施したもの)、左右に「昔父母兄弟とここで共に観たのは幾年も前でない、今は我一人で来た」と嘆いて悲しみ、自ら文を製して壁に題し、読む者を悲しませた。12月庚辰、金瓶濼に至り、伊喇華格・科爾羅・和囉木薩噶らを敵境に捉生に遣わす。

天顕十一年(937年)

  • 春正月、土河で釣りをする。庚申、潢河に至る。3月庚寅朔、女直が来貢。夏4月庚申、祖陵に謁す。戊辰、都に還り太祖廟に謁す。辛未、燕の民で復業した者に汴州の事宜を陳べさせる。癸酉、女直諸部が来貢。癸未、回鶻の使者に衣を賜う。5月戊戌、沿柳湖で避暑。6月戊午、布古徳が来貢。乙酉、吐谷渾が来貢。秋7月辛卯、烏爾古が来貢。壬辰、仏古寧公主が三河烏爾古を率いて来朝。丙申、唐の河東節度使石敬瑭がその主に討たれ、西南路招討羅卜科を経て趙瑩を遣わし救援を求める。太宗が皇太后に「李従珂は主君を弑し自立した、神人ともに怒っている、天討を行うべきだ」と述べる。この時趙徳鈞も使者を送り、河東からは再び桑維翰が急を告げに来たため、ついに出兵を許す。8月己未、蕭轄哩を遣わし河東に師期を告げる。丙寅、吐谷渾が来貢。庚午、自ら将となり敬瑭を救援。9月癸巳、飛鵲が自ら墜落死し、南府額爾竒木和掄がこれを得て献上、卜すると吉と出て、太宗は「これは従珂が自滅する兆しだ」と述べる。丁酉、雁門に入る。戊戌、忻州に至り天地を祭る。己亥、太原に至る。庚子、敬瑭に使者を遣わし「朕は遠征してきたのだから、卿とともに賊を破ろう」と諭す。唐将高行周・符彦卿が兵で拒むと太原で陣を張り、偽って退くふりをすると唐将張敬達・楊光遠もまた西に陣を張るがまだ列をなさぬうちに撃ち、行周・彦卿は伏兵に首尾を断たれ、敬達・光遠は大敗し武器を捨てて逃げ斬首数万級、敬達は晋安寨に逃げ込む。額爾竒木達魯は戦って戦死。敬瑭は官属を率いて謁見に来て太宗はその手を執って労う。癸卯、晋安を囲む。甲辰、達魯の子図勒琿に父の字を名として継がせ忠を旌する。南宰相呼喇台・奚監軍伊聶済・将軍布哈が陣前で臆病に退いたのを太宗は厳しく責める。冬10月甲子、敬瑭を晋王に封じその邸に幸す。敬瑭とその妻李がその親族を率いて觴を捧げ太宗に寿を上げる。晋安を囲んで精兵を要害に配し援兵を絶っていたところ、李従珂が趙延寿に2万で団柏谷に、范延広に2万で遼州に、幽州の趙徳鈞に1万余で上党から延寿の軍に合流して進撃させようとするが、備えがあると知って逗留し進まず、従珂は精騎3万を率いて河陽に出るが救援できないと知り毎日酒に溺れ悲歌するのみであった。丁卯、敬瑭を行在に召して坐を賜い「私は三千里を挙兵して来て一戦で勝った、天意であろう。汝の雄偉宏大な姿を見るに、南土を受けて世々わが藩輔となるべきだ」と語り、有司に命じて晋陽に壇を設け冊命の礼を備えさせる。11月丁酉、敬瑭を「大晋皇帝」に冊立。戊戌より戊申にかけ候騎が南・西に兵が至ると再三奏し、特哩衮達年に迎撃させる。敬達は80余日包囲され内外が隔絶し軍糧が尽き馬糞の屑や木を煮て馬に与え、馬は飢えて互いの鬣尾を食い、死ねば食糧にした。光遠らは敬達に降伏を勧めるが敬達は「私には死あるのみ、降りたいなら私の首を斬って降れ」と拒む。閏月甲子、楊光遠・安審琦が敬達を殺して降る。太宗は敬達が死に至るまで節を変えなかったと聞き左右に「臣たる者はかくあるべきだ」と述べ、礼を以て葬らせ、降った軍士と馬5千匹を晋帝に賜う。丙寅、天地を祭って成功を告げる。庚午、僕射蕭庫克克斉が趙徳鈞らの援軍が逃げようとしていると奏し、夜に兵を発し追撃、徳鈞らの軍は皆武器を投げ捨て互いに踏み合い川谷に落ちる者が数えきれないほどであった。皇太子に軽騎で険要を占め歩兵1万余を追撃させ悉く降す。辛未、栢谷の包囲を解き酒肴で天地を祭り、徳鈞父子を追いつめ降伏させて潞州に至り、諸将を召して議すると皆班師を求め、これに従い南宰相吉琳・呼喇台・奚監軍伊聶済・将軍布哈を先に還らせる。壬申、特哩衮斡・林牙徳勒賓が俘虜を献ずる。晋帝が辞去するとき太宗は宴を開き酒酣に手を執って父子の約を結び、白貂裘一・厩馬20・戦馬1200を餞に贈る。徳勒賓に5千騎で洛陽まで送らせ、別れ際に「朕はここに留まり乱が定まるのを待ってから帰ろう」と告げる。辛巳、晋帝が河陽に至ると李従珂は窮まり人皇王貝に同死を求めるが従わず、人を遣わし殺し一族と共に自焼した。戦没した士卒を汾水のほとりに埋葬させ京観とする詔。晋は桑維翰に文を作らせ太宗の功徳を記させる。12月乙酉朔、近侍塔魯を遣わし晋帝を存問。丙戌、晋安で得たものを将校に分賜。戊子、使者を馳せて皇太后に奏し諸道の師の帰還を報じる。庚寅、太原を発つ。辛卯、晋帝が洛陽に入ったと聞き郎君済勒台を遣わし撫問。壬辰、細河に至り降将趙徳鈞父子の兵馬を閲す。戊戌、雁門に至り沙太保の部兵を諸将に分隷。庚戌、応州に幸す。癸丑、唐の大同・彰国・振武の3節度使が来迎し、留めて帰さない。

天顕十二年(937年)

  • 春正月丙辰、堆子口に至る。唐の大同軍節度判官呉巒が城を閉じて命に拒むと崔廷勲を遣わし城を囲ませる。庚申、太宗自ら親征して城下に至り諭すと呉巒は降る。辛酉、雲州の北で鬼箭を射る。壬戌、天地を祭る。癸亥、国舅安図を遣わし奚西部の民をそれぞれ本土に還す。丙寅、皇太后が侍衛舒嚕を遣わし急ぎ来るよう促すと、この夕に軽騎を率いて先進。丁丑、皇子舒嚕が灤河で出迎え、太祖行宮に功を告げる。戊寅、皇太后に朝し珍玩を進めて寿を祝う。2月丁亥、軍前で捕らえた幽州に逃げ込んだ叛人をみな斬る。壬寅、諸部に休養させる詔。癸卯、晋が唐に虜われた郎君埒克・文班吏蕭岱爾を還す。3月庚申、晋が使者を遣わし来貢。丁卯、晋の天雄軍節度使范延広が密かに内附を請うが受け入れず。己巳、郎君達里庫美楞徳哷を晋に遣わす。壬午、晋の使者と諸国の使者が謁見に来る。夏4月甲申、地震。平地松林に幸し潢水の源を観る。5月甲寅、頻蹕淀に幸す。壬申、開皇殿に落雷。6月甲申、晋が戸部尚書聶延祚らを遣わし尊号を上ることと、雁門以北・幽薊の地を帰すこと、歳ごとに帛30万疋を貢すことを請うが、詔して許さず。庚戌、侍中羅索が「范延賓が晋に叛き南に兵を向けている」と言上。秋7月辛亥朔、諸部に治兵の詔。癸丑、懐州に幸し陵に謁す。甲子、晋が使者を遣わし范延広の反乱を告げる。庚午、耶律尼古呼を晋に遣わし軍事を議す。8月癸未、晋が再び尊号を請う使者を遣わすが許さず。庚寅、晋・太原の劉知遠・南唐の李昪がそれぞれ使者を遣わし来貢。庚子、晋が使者を遣わし汴州入城と范延広の投降を告げる。9月壬子、布古徳が来貢。庚申、珠勒呼を晋・南唐に遣わす。癸亥、珠巴克・女直が来貢。辛未、高麗・鉄驪に使者を遣わす。癸酉、回鶻が来貢。冬10月庚辰朔、皇太后の永寧節に晋・回鶻・燉煌の諸国がみな使者を遣わし賀す。壬午、回鶻の使者呼爾察阿勒巴にその風俗を問う。丁亥、諸国の使者が帰ると富勒呼・皮室・哈瑪爾を遣わし諸国に赴かせる。11月己未、晋に医者を求める使者を遣わす。丁卯、鉄驪が来貢。12月甲申、東方に幸し木葉山を祠る。癸丑、医者が来る。