神冊四年(919年)
- 春正月丙申、東山で虎狩り。2月丙寅、遼陽故城を修築し漢民・渤海の民を実たして東平郡と改称、防禦使を置く。夏5月庚辰、東平郡より帰還。秋8月丁酉、孔子廟に謁し、皇后・皇太子に寺観への参詣を分担させる。9月、烏爾古部を征討する途上で皇太后の病を聞き、一日で600里を馳せ戻って看病、病が癒えると軍中に戻る。冬10月丙午、烏爾古部に至ると大風雪で兵が進めず、太祖が天に祈るとたちまち晴れ、皇太子に先鋒軍を率いさせて撃破、生口1万4200・牛馬車乗廬帳器物20余万を捕獲、以後全部が帰服した。
神冊五年(920年)
- 春正月乙丑、契丹大字を初めて製作。夏5月丙寅、呉越王が再び滕彦休を遣わし犀角・珊瑚を貢ぎ、官を授けて帰す。庚辰、伊喇山陽の水上に龍が現れ、太祖がこれを射獲りその骨を内府に蔵す。閏6月丁卯、皇弟蘇を特哩衮、康黙記を伊勒希巴とする。秋8月己未、党項諸部が叛くと辛未、太祖自ら親征。9月己丑朔、梁が郎公遠を遣わし来聘。壬寅、大字の頒行を詔し、皇太子に迭剌部額爾竒木裕勒沁らを率いさせ雲内・天徳を攻略。冬10月辛未、天徳を攻め、癸酉、節度使宋瑤が降り、弓矢・鞍馬・旗鼓を賜りその軍を「応天」と改称。甲戌、班師するが宋瑤が再び叛いたため丙子、その城を抜いて宋瑤を捕らえ、家属を虜にして陰山の南に移す。12月己未、師還る。
神冊六年(921年)
- 春正月丙午、皇弟蘇を南府宰相、迪里を特哩衮とする。南府宰相は諸弟の反乱により名族が多く禍にかかったため久しく空位で、卓特部轄塔哩珠勒呼が摂していたが、府中がしばしば宗室からの任命を求めた。太祖は旧制を軽々に変えられないとしたが求めがやまず、ついに宗廟に告げてから授与、宗室が南府宰相となるのはこれに始まる。夏5月丙戌朔、法律を定め班爵を正す詔。丙申、前代の直臣の像を画いて「招諫図」とし、長吏に4孟月ごとに民の利病を訊ねさせる詔。6月乙卯朔、日食。冬10月癸丑朔、晋の新州防禦使王郁がその部の山北兵馬を率いて内附。丙子、太祖は大軍を率いて居庸関に入る。11月癸卯、古北口を下す。丁未、分兵して檀・順・安遠・三河・良郷・望都・潞・満城・遂城など10余城を攻略、民を捕らえて内地に移す。
- 12月癸丑、王郁がその衆を率いて来朝、太祖は郁を「子」と呼び厚く賞賚し、その衆を潢水の南に移す。庚甲、皇太子は王郁を率いて定州を攻略、康黙記は長蘆を攻める。晋の義武軍節度使王処直の養子・都がその父を幽閉し自ら留後と称す。癸亥、涿州を囲むと白兎が塁を登り、この日に外郭を破る。癸酉、刺史李嗣弼が城を降す。乙亥、存勗が定州に至り王都が馬前に出迎え、存勗は望都に向かうが我が軍托諾の5千騎に囲まれ、存勗は数度力戦するも解けず、李嗣昭が300騎で救援し我が軍がやや退いたところを存勗は脱出、大戦の末に我が軍は不利で引き返す。存勗は幽州に至り200騎で我が軍の後を追わせるが、我が軍は反撃してことごとく捕らえる。己卯、檀州に還ると幽州の人が来襲するが撃退しその裨将を捕らえる。檀・順の民を東平・瀋州に移す詔。
天贊元年(922年)
- 春2月庚申、再び幽薊地を攻略。癸酉、改元の詔を出し、軍前の殊死以下を赦す。夏4月甲寅、薊州を攻め戊午に抜き刺史胡瓊を捕らえ、盧国用・尼嚕古に軍民事を典らせる。壬戌、軍士に大いに饗す。癸亥、李存勗が鎮州を囲み張文礼が援を求め、郎君迪里・将軍康末怛を遣わして撃破し将李嗣昭を殺す。辛未、石城県を攻めて抜く。5月丁未、張文礼が卒し子の処瑾が使者を送って謝罪。6月、鷹軍を遣わし西南諸部を撃ちその獲物を貧民に賜う。冬10月甲子、蕭希達を北府宰相とし迭剌部を北院・南院の二院に分け、実訥斉を北院額爾竒木、烏蘇を南院額爾竒木とする。北・達寧額を二部に分け両節度使を置いてこれを統べさせる詔。11月壬寅、皇子耀庫済を天下兵馬大元帥に任じ薊北を攻略させる。
天贊二年(923年)
- 春正月丙申、元帥耀庫済が平州を克し刺史趙思温・裨将張崇を捕らえる。2月、平州に赴き甲子、平州を盧龍軍とし節度使を置く。3月戊寅、箭笴山で叛いた奚呼遜を捕らえ鬼箭で射殺し、その党300人を誅して狗河に沈める。奚托輝部を置き布倫に総管させる。夏4月己酉、梁が使者を遣わし来聘、呉越王も来貢。癸丑、耀庫済に幽州攻撃を命じ、迭剌部額爾竒木迪里に山西の地を攻略させる。庚申、耀庫済の軍が幽州の東で節度使符存審の将と戦ってこれを破り、裴信父子を捕らえる。閏月庚辰、耀庫済は鎮州に至る。壬午、曲陽を抜く。丙戌、北平を下す。晋王李存勗が皇帝に即位し国号を唐とする。5月戊午、耀庫済の師還る。癸亥、軍士に大いに饗し賞賚に差をつける。6月辛丑、波斯国来貢。秋7月、前北府宰相蕭阿古斉と王郁が燕趙の地を攻略。冬10月辛未朔、日食。己卯、唐が梁を滅ぼす。
天贊三年(924年)
- 春正月、燕南を攻略する兵を派遣。夏5月丙午、特哩衮迪里を南院額爾竒木とし薊州の民を遼州の地に実たす。渤海がその刺史張秀実を殺し民を掠める。6月乙酉、皇后・皇太子・大元帥・二宰相・諸部頭らを召し詔を下す。「上天が下界を鑑み烝民を恵む。聖主明王も万載に一遇。朕はすでに天命を上に承け、下は烝生を統べ、征行はいずれも天意を奉じている。機謀は己にあり、取捨は神のごとし。国令はすでに行われ人情は大いに靡き従い、歪みは正に帰し、遠近に憂いはない。まことに溟海を含み泰山を安んずるがごとしと言えよう。わが国の経営は諸方の父母たり、憲章はここに在り、後継が何を憂えよう。昇降には期があり、去来はわれにあり、良籌は自ら天人に契う。衆国の羣王がどうしてその凡骨を化せられよう。3年の後、丙戌の年、初秋の頃には必ず帰する所があろう。ただ未だその終わりを尽くさぬのみ。どうして親への誠を負おうか。日月は遠くない、戒厳して速やかにせよ」。詔を聞く者は皆驚き懼れ、その意を識ることができなかった。この日、托歓・党項・準布等の部を大挙して征討、皇太子に監国、大元帥耀庫済を従わせる。
- 秋7月辛亥、哈喇らが索歓納山東部族を撃破。8月乙酉、烏爾古山に至り鵝で天を祭る。甲午、古単于国に至り阿勒坦音徳爾山に登り麃鹿で祭る。9月丙申朔、古回鶻城に至り石に功を刻む。庚子、蹛林で日を拝む。丙午、騎兵を遣わし準布を攻める。南府宰相蘇・南院額爾竒木迪里が西南地を攻略。乙卯、蘇らが俘虜を献上。丁巳、金河の水を鑿ち烏山の石を潢河の木葉山まで運び、山海朝宗の意を示す。癸亥、大食国が来貢。甲子、丕勒汗の故碑に契丹・突厥・漢の字でその功を刻む詔。この月、呼穆蘇山の諸蕃部を破り伊徳実山に至り赤牛・青馬で天地を祭る。回鶻巴哩が来貢。冬10月丙寅朔、約囉山で狩りをし野獣数千を得て軍食にあてる。丁卯、巴爾斯山に軍を進め、兵を流沙の彼方に遣わし浮図城を抜き西鄙の諸部を尽く取る。11月乙未朔、甘州回鶻の都督必里克を捕らえ、使者を遣わしその主烏穆珠汗を諭す。烏蘭実哷山から巴克実山まで600余里を虎狩りしながら行軍、日々鮮食に恵まれ軍士も皆給される。
天贊四年(925年)
- 春正月壬寅、勝報を皇后・皇太子に伝える。2月丙寅、大元帥耀庫済が党項を攻略。丁卯、皇后が康末怛を遣わし起居を問い御服・酒膳を進める。乙亥、阿古斉が燕趙を攻略して還り牙旗・兵仗を進上。辛卯、耀庫済が党項の俘虜を献上。3月丙申、水精山で軍士に饗す。夏4月甲子、南方の小蕃を攻めて下し、皇后・皇太子が札里河で出迎える。癸酉、回鶻烏穆珠汗が謝罪の使者を遣わし来貢。5月甲寅、室韋の北陘で避暑。秋9月癸巳、西征より帰還。冬10月丁卯、唐が梁を滅ぼしたことを告げに来て、即座に使者を遣わし報聘。庚辰、日本国が来貢。辛巳、高麗国が来貢。11月丁酉、安国寺に幸し僧に施し京師の囚人を赦し五坊の鷹鶻を放つ。己酉、新羅国が来貢。12月乙亥、詔して「先の二事のうち一事はすでに終えたが、渤海との世讐はいまだ雪いでいない。安んじて留まっていられようか」として渤海の大諲譔への親征を挙兵、皇后・皇太子・大元帥耀庫済が従う。閏月壬辰、木葉山を祠り、壬寅、烏山で青牛白馬で天地を祭る。己酉、色克山に至り鬼箭を射る。丁巳、啇嶺に至り夜に扶餘府を囲む。
天顕元年(926年)(太祖崩御)
- 春正月己未、白気が太陽を貫く。庚申、扶餘城を抜きその守将を誅す。丙寅、特哩衮安図・前北府宰相阿古斉らに1万騎を率いさせ先鋒とし諲譔の老相の兵を破る。皇太子・大元帥耀庫済、南府宰相蘇、北院額爾竒木実訥斉、南院額爾竒木迪里が輝罕城を囲む。己巳、諲譔が降を請う。庚午、輝罕城の南に駐軍。辛未、諲譔が素服・槀索で羊を牽いて僚属300余人と共に降を出、太祖はこれを優遇して釈放。甲戌、渤海の郡県に諭す詔。丙子、近侍康末怛ら13人を城に入れ兵器を索めさせるが邏卒に殺害される。丁丑、諲譔が再び叛くとその城を攻め破り、太祖が城中に幸すると諲譔は馬前に罪を請い、太祖は兵で諲譔とその一族を守らせて城を出、天地を祭って軍中に還る。
- 2月庚寅、安辺・鄚頡・南海・定理等の府と諸道の節度・刺史が来朝して慰労し、獲得した器幣を将士に賜う。壬辰、青牛白馬で天地を祭り大赦、改元「天顕」として渤海平定を告げ、使者を唐に遣わす。甲午、再び輝罕城に幸し府庫の物を閲して従臣に賜う。奚部長布倫・王郁ら回鶻・新羅・吐蕃・党項・室韋・沙陀・烏爾古など従征の功労者に厚く賞賚する。丙午、渤海国を東丹と改め輝罕城を天福と改称、皇太子貝を「人皇王」に冊立してこれを主とし、皇弟特爾格を左大相、渤海老相を右大相、渤海司徒大素賢を左次相、伊済を右次相とし、国内の殊死以下を赦す。丁未、高麗・濊貊・鉄驪・靺鞨が来貢。3月戊午、額爾竒木康黙記・左僕射韓延徽を遣わし長嶺府を攻める。甲子、天を祭る。丁卯、人皇王の宮に幸す。己巳、安辺・鄚頡・定理の3府が叛くと安図を遣わし討たせる。丁丑、3府平定。壬午、安図が俘虜を献上し安辺府の叛帥2人を誅す。癸未、東丹国の僚佐を宴し賞賜に差をつける。甲申、天福城に幸す。乙酉、班師し大諲譔もその一族を率いて随行。
- 夏4月丁亥朔、繖子山に至る。辛卯、人皇王が東丹国の僚属を率いて辞去。この月、唐の養子李嗣源が反し郭存謙が主の存勗を弑し、嗣源が即位。5月辛酉、南海・定理の2府が再び叛くと大元帥耀庫済に討たせる。6月丁酉、2府平定。丙午、慎州に至る。唐が姚坤を遣わし国哀を告げる。秋7月丙辰、鉄州刺史衛鈞が反す。乙丑、耀庫済が鉄州を攻め抜く。庚午、東丹国左大相特爾格が卒す。辛未、大諲譔を護送して皇都の西に築城して居住させ「烏勒呼」と名づけ、妻を「阿勒札」と名づける。盧龍行軍司馬張崇が叛いて唐に奔る。甲戌、扶餘府に至り太祖が体調を崩す。この夕、大星が幄前に隕ちる。辛巳、明け方に子城上に黄龍がとぐろを巻いて現れ長さ一里ほど、光耀が眼を奪い行宮に入り、紫黒の気が天を蔽って一日中消えなかった。この日、太祖崩御、年55。天贊三年に「丙戌の年秋の初めに必ず帰する所がある」と言ったのが、この時に験された。壬午、皇后が称制し軍国の事を権に決す。
- 8月辛卯、康黙記らが長嶺府を抜く。甲午、皇后が梓宮を奉じて西に遷る。壬寅、耀庫済が諸州を討平し行在に馳せ参じる。乙巳、人皇王貝も相次いで至る。9月壬戌、南府宰相蘇が薨じる。丁卯、梓宮が皇都に至り子城の西北に権殯する。己巳、諡を「昇天皇帝」、廟号を「太祖」とする。冬10月、盧龍節度使盧国用が叛いて唐に奔る。11月丙寅、南院額爾竒木耶律迪里・郎君耶律畢老らを誅殺する。
天顕二年(927年)
- 8月丁酉、太祖皇帝を祖陵に葬り、祖州天城軍節度使を置いて陵寝を奉じさせる。統和26年(1008年)7月、諡を「大聖大明天皇帝」に進め、重熙21年(1052年)9月、諡を「大聖大明神烈天皇帝」に加える。太祖が崩じた行宮は扶餘城の西南、両河の間にあり、後に昇天殿をここに建て、扶餘を黄龍府と名づけたという。
史論
- 賛して言う。遼の先祖は炎帝に出て代々森済国であったが、確かに知られるのは竒善からである。竒善は都菴山に生まれ潢河の浜に移り住み、聶哷に伝わって初めて制度を立て官属を置き、木を刻んで契とし地を穴って牢とし、蘇爾威に位を譲られても自立しなかった。聶哷は必塔を生み、必塔は海蘭を生み、海蘭は努爾蘇(大度寡欲で令が厳しくなくとも人々が感化された、肅祖)を生んだ。肅祖は薩喇達(黄室韋と戦い矢が数札を貫いた、懿祖)を生み、懿祖は伊徳実(民に稼穡を教え畜牧を善くし国を殷富にした、玄祖)を生み、玄祖は色勒迪(民を仁じ物を愛し鉄冶を初めて置き鋳造を教えた、徳祖。すなわち太祖の父)を生んだ。契丹は代々約尼氏が政柄を執り、徳祖の弟蘇哷は北は伊済室韋を征し南は易・定・奚・霫を攻略し、初めて板築を興し城邑を置き、民に桑麻の栽培と機織りを教え、すでに広土衆民の志があった。太祖は可汗の禅譲を受けて建国し、東征西討すること枯木を折り朽ちたものを引き裂くがごとく、東は海から西は流沙まで、北は大漠を絶ち、威信は万里に及び、歴年200年に及んだのはただ一日の故ではない。
- 周公が管叔・蔡叔を誅したことを非難する者はいなかったが、太祖は埒克・安図の乱に際してその死を貸しさらに登用した。これは人君の度量として果たして正しいか。旧史(旧五代史)が伝える扶餘の変(太祖崩御時の異象)もまた不可思議なことである。