列女傳卷二 楚老萊妻

出自

  • 楚の隠者・老萊子の妻。

楚王の招聘を退けて夫とともに移る

  • 老萊子は世を逃れ、蒙山の南で耕作していた。葦の垣に草葺きの家、木の寝床に蓍草の敷物、綿の粗末な衣に豆を食べる暮らしで、山を開いて種を播いていた。
  • ある人が楚王に「老萊は賢士である」と告げた。王は璧と帛を持たせて招こうとしたが、来ないことを恐れ、自ら老萊の門まで車で赴いた。老萊がちょうど畚(もっこ)を編んでいるところに、王は「私は愚かにも一人で宗廟を守っています、どうか先生おいでください」と言った。老萊子は「私は山野の人間で、政を担うには足りません」と答えたが、王は重ねて「国を守る孤(わたくし)のために、どうか志を変えてください」と求め、老萊子はついに「承知しました」と答えた。
  • 王が去ったあと、妻が畚を頭に載せ薪を挟んで帰ってきて、「なぜこんなに車の跡が多いのですか」と尋ねると、老萊子は「楚王が私に国の政を任せたいと言うのだ」と答えた。妻が「承知したのですか」と問うと、「そうだ」と答えた。
  • 妻は「わたくしはこう聞いております。人から酒肉を施される者は、鞭打たれる身にもなり得る。人から官禄を授けられる者は、斧鉞にかけられる身にもなり得る、と。今、先生は人から酒肉をいただき、人から官禄を授かれば、人に制御される身となります。それで災いを免れられましょうか。わたくしは人に制御される身になることはできません」と言い、畚を投げ捨てて去ろうとした。老萊子は「戻ってくれ、私がお前のためにもう一度考え直そう」と言い、そのまま出立して振り返らず、江南に至って止まり、「鳥獣の抜け毛でも績んで衣にできる。落ち穂を拾えば十分食べていける」と言った。老萊子は結局妻に従ってそこに住んだ。人々もこれに従って移り住むようになり、一年で村ができ、三年で大きな集落になった。

  • 君子は老萊の妻を、善に従うことに果断な人と評した。詩に「衡門之下、可以棲遲、泌之洋洋、可以療饑」とあるのはこのことをいう。

史論

  • 頌にいう。老萊と妻は世を逃れて蒙山の南に住み、蓬や蒿を家とし、莞や葦を屋根とした。楚王が招くと、老萊はいったん応じようとしたが、妻が世の乱れを説くと、ついに逃れて姿を隠した。