列女傳卷二 魯黔婁妻

出自

  • 魯の隠者・黔婁先生の妻。

夫の死に際し「康」の諡を選ぶ

  • 黔婁先生が死ぬと、曾子が門人とともに弔問に訪れた。妻が戸口に出て曾子を迎え、堂に上がると、先生の遺体が窓の下に置かれ、瓦を枕にして藁の敷物に横たわり、綿入れの上着をまとうのみで表着もなく、布の被いをかけただけで、頭と足の両方をおおうことができなかった。頭を覆えば足が見え、足を覆えば頭が見えた。
  • 曾子が「被いを斜めにかければ全身を覆えるでしょう」と言うと、妻は「斜めにして余りがあるより、正しくして足りない方がよいのです。先生は不正であることを避けたからこそ、この境地に至れたのです。生前不正でなかったのに、死んでから斜めにするのは、先生の本意ではありません」と答えた。曾子は答えられず、泣いて「ああ、先生の最期に、諡を何としましょうか」と言うと、妻は「『康』を諡としましょう」と答えた。
  • 曾子は「先生は生きているとき食べる物も満足になく、着る物も体を覆うに足りませんでした。死んでも手足を覆うことができず、傍らに酒肉もありません。生きて美味を得ることもなく、死んで栄誉も得られないのに、何を楽しんで『康』と諡するのですか」と問うた。
  • 妻は「昔、先生は君(魯君)から国相の位を授けようと言われましたが辞退しました。これは余るほどの貴さを持っていたということです。君はまた粟三十鍾を賜おうとされましたが、先生は辞退して受けませんでした。これは余るほどの富を持っていたということです。先生は天下の淡白な味を甘んじて受け入れ、天下の低い身分に安んじていました。貧賤を憂えることもなく、富貴に浮かれることもありませんでした。仁を求めて仁を得、義を求めて義を得ました。その諡を『康』とするのは、まことにふさわしいことではありませんか」と答えた。曾子は「このような人にして、このような妻がいたのか」と言った。

  • 君子は黔婁の妻を、貧しさを楽しんで道を行う人と評した。詩に「彼美淑姬、可與寤言」とあるのはこのことをいう。

史論

  • 頌にいう。黔婁が死んだとき、妻がひとり喪を取り仕切った。曾子が弔いに訪れると、粗末な布の衣と褐色の衾があるのみであった。貧しさに安んじて淡白を甘んじ、豊かさや美を求めず、遺体を覆いきれずとも、諡を「康」とした。