列女傳卷二 秦穆公姬

出自

  • 穆姬は秦穆公の夫人で、晉獻公の娘。太子申生の同母の姉であり、惠公とは異母の関係にあった。賢く義に厚い人柄であった。

晉惠公と秦の対立

  • 獻公が太子申生を殺し、他の公子たちを追放したとき、惠公(公子夷吾)は梁へ逃れた。獻公の死後、惠公は秦の力を借りて即位した。即位にあたり、穆姬は「公族は君主の根本である」と述べて他の公子たちを迎え入れるよう惠公に進言したが、惠公は用いず、さらに秦への約束(賂)にも背いた。
  • 晉が飢饉になり秦に穀物を求めると秦はこれを与えたが、後に秦が飢饉になり晉に求めても晉は与えなかった。秦はついに兵を挙げて晉と戦い、晉君(惠公)を捕らえて連れ帰った。
  • 秦穆公が「先祖の廟を掃き清め、晉君を見えさせよう」と言うと、これを聞いた穆姬は太子罃、公子宏、娘の簡璧とともに喪服をまとい薪を敷いて出迎え、穆公に「天が災いを下し、両君が玉帛で会うことなく戦を起こすに至りました。婢子(わたくし)ら姉妹が至らず、君命を辱めました。晉君が朝に入れば、婢子は夕べに死にます。どうかお考えください」と告げた。
  • 穆公は恐れて晉君を靈臺に留め置いた。大夫たちは晉君を都に入れるよう求めたが、穆公は「晉君を捕らえた功で帰るところを、喪をもって帰るのでは何のためか分からない」と述べ、晉君の宿舎を改めて七牢(牛羊豚各七頭)を贈って送り返した。
  • のち穆姬が死に、その弟である重耳が秦に入ると、秦は重耳を晉に送り、これが晉文公となった。太子罃は母(穆姬)の恩を思い、その舅(重耳)を見送って詩を作り、「我送舅氏、曰至渭陽、何以贈之、路車乘黃」と詠んだ。

  • 君子は「慈母は孝子を生む」と言った。詩に「敬慎威儀、維民之則」とあるのは穆姬をいう。

史論

  • 頌にいう。秦穆公の夫人は晉惠公の姉であった。秦が晉君を捕らえると、夫人は涙を流し、救えないことを痛んでみずから死のうとした。穆公はこれを義として、その弟(惠公)を釈放した。