王偉
- 王偉はもと略陽の人。父の略が魏に仕えて許昌令となり潁川に居住した。偉は周易に通じ文才も高く、魏で行臺郎として仕えた。景の叛乱後、高澄が招書を送ると、偉が景に代わって返書を作り、その文の巧みさに澄は「誰が書いたのか」と驚き、「これほどの才があるならもっと早く知るべきだった」と惜しんだ。
- 景の謀議・文檄はすべて偉の手になり、簒逆の企ても偉が発案した。景の敗死に際して侯子鑒と共に逃げるが逸れ、草中に潜んでいたところを直瀆戍主黄公喜に捕えられた。王僧辯の前で拝礼せず「互いに人臣であるのに何を敬うことがあろう」と応じ、僧辯に「賊の宰相でありながら節に殉じず草間で命乞いをするとは何のための才か」と問われると「もし侯景が私の言に早く従っていれば、公が今日の勢いを得ることもなかったろう」と嘯き、僧辯を苦笑させた。
- 護送の途中「今日から八十里歩く、驢馬を貸してほしい」と願い出ると、僧辯は「お前の頭は万里を行くのに何の八十里か」と斬首を示唆した。前尚書左丞虞隲に唾を吐かれ罵られても「お前は書を読んでいないから話にならぬ」とやり返す胆力を示した。呂季略・周石珍・厳亶とともに江陵へ送られると、偉はなお助命を望んで元帝に詩を献じたが、朝士の多くがこれを妬み、かつて偉が作った檄文(項羽の重瞳の敗北になぞらえ元帝の隻眼を揶揄する句)を元帝に示したため、元帝は激怒し釘で舌を柱に打ち付け腸をえぐる処刑を行い、周石珍・厳亶ともども三族を夷した。
- 趙伯超(趙革の子)は建鄴に至って王僧辯に「国恩を受けながら逆賊に加担した」と咎められたが「禍福は明公の意のままだ」と答えた。謝答仁も僧辯に「侯景の驍将と聞くが交戦できなかったのが恨めしい」と言われ「公の武威に敵うはずがない」と答えて笑われ、簡文帝への礼を失わなかったため助命された。伯超と伏知命はともに江陵の獄で餓死し、彭儁は生け捕られ腹を割いて肝臓を抜かれてから斬られた。