南史卷八十 列傳第七十賊臣 熊曇朗

熊曇朗

  • 熊曇朗は豫章南昌の人で、代々郡の名家であった。放縦で不羈、膂力と容貌に優れ、侯景の乱に乗じて少年らを集め豊城県に拠って柵を築き、盗賊を糾合した。梁の元帝により巴山太守とされたが、魏が荆州を陥すと兵力を頼んで近隣県を掠奪し、住民を捕えて売り飛ばすなど山谷の巨患となった。
  • 侯瑱が豫章を鎮めると、曇朗は表向き服従しつつ密かに瑱を図った。侯方兒の反乱の際には謀主となり、瑱の敗戦に乗じて馬・武具・子女を多く奪った。蕭勃が嶺を越えた際、歐陽頠を前軍とする討伐軍に対し、曇朗は頠を欺いて共に巴山の黄法氍を襲うと偽りつつ、実は法氍にも頠を破る計を通じて武具の分配を約し、さらに余孝頃の来襲を口実に頠から甲二百領を得て、いざ戦闘となると偽って敗走し頠を狼狽させて武具を奪った。
  • 巴山の陳定が砦を構えると、曇朗は娘を定の子に嫁がせると偽り、周廸・余孝頃の妨害を口実に強兵で迎えさせ、その隙に定を捕えて武具を奪い身代金を取った。陳の建国後、南川の豪帥として宜・新・豫章三郡の太守を歴任し、王琳への抵抗の功で永化県侯・平西将軍・開府儀同三司に封ぜられたが、周文育が余孝勵を豫章で攻めた際、曇朗は文育に加勢すると見せて逆に殺害し王琳に呼応した。
  • 王琳が東下すると陳文帝は南川の兵を徴し、江州刺史周廸・高州刺史黄法氍がこれに応じようとしたが、曇朗は城を拠点に艦を並べて廸らの進路を阻んだ。王琳が敗走すると廸が城を攻め落とし、曇朗は村に逃げ込んだが村人に斬られ、首は建鄴に送られ朱雀航に懸けられた。一族は老幼を問わず皆殺しにされた。