周廸
- 周廸は臨川南城の人。若くして山谷に暮らし膂力に優れ、弋猟を生業としていた。侯景の乱に際し宗人の周続が臨川で挙兵すると、梁の始興王蕭毅は郡を続に譲り、廸は郷人を募って従い、戦うごとに諸軍を圧倒する働きを見せた。続配下の渠帥は郡の豪族で驕横であったため続がこれを禁じると、渠帥らは続を殺して廸を主に推した。
- 梁の元帝は廸に高州刺史・臨汝県侯を授け、紹泰二年(556年)衡州刺史・臨川内史となった。周文育が蕭勃討伐に赴いた際、廸は兵を控えて成敗を見極めた。陳の武帝受禅・王琳東下の際には南川を自らのものにしようと八郡の守宰を集めて盟約し、朝廷への出兵を口実にしたが、朝廷は変事を恐れて厚遇した。
- 王琳が盆城に至ると新呉洞主余孝頃が呼応し、琳は南川諸郡を檄一つで平定できると見て李孝欽・樊猛らに糧餉を求めさせたが、孝欽らと余孝頃が廸を圧迫すると、廸は大いにこれを破って孝欽・猛を捕え孝頃とともに建鄴に送り、平南将軍・開府儀同三司に叙された。文帝の即位後、熊曇朗が反すると廸は周敷・黄法氍らと共に囲んでこれを滅ぼした。
- 王琳敗北後、文帝は廸を盆口に鎮させ、子を朝廷に召そうとしたが廸は躊躇して従わなかった。かつて廸配下であった豫章太守周敷が黄法氍とともに朝廷に帰順すると、文帝は熊曇朗討伐の功に厚く報い、これに不満を抱いた廸は密かに留異と結び、王師が留異を討つと廸は疑懼して弟方興に周敷を襲わせたが敗れ、別に華晈を盆城に襲わせた計画も事前に露見して破られた。
- 天嘉三年(562年)、文帝は江州刺史呉明徹・高州刺史黄法氍・豫章太守周敷を廸討伐に遣わしたが破れず、宣帝(当時皇太子ではなく後の陳宣帝)を総督として派遣すると廸の軍は潰え、嶺を越えて晋安の陳寳應のもとに逃げ込んだ。寳應は兵糧を援助し、留異はさらに第二子忠臣を随行させた。翌年秋、廸は再び東興嶺を越え、文帝は都督章昭達を遣わして討たせ、廸は再び山谷に散った。
- 侯景の乱で百姓の多くが本業を棄てて盗となる中、廸の支配地だけは侵略を受けず耕作養蚕が盛んで蓄えも豊かであった。廸自身は威儀を飾らず質朴で、冬は短い布袍、夏は紫紗の腹巻き一枚で常に素足であったが、内には女伎を置き縄を綯い篾を割く仕事をさせて質実な暮らしを保った。財を惜しまず施しをして分配も公平であったため臨川の人々に深く慕われ、廸を匿う者が絶えず誅殺されても口を割らなかった。
- 昭達は嶺を越えて陳寳應と対抗を続け、廸は東興に出て文帝の遣わした都督程霊洗に破られ、十余人と山の洞穴に隠れたが、臨川郡に魚を買いに出たところを臨川太守駱文牙に捕えられた。文牙は廸に功を立てさせると偽って狩りに誘き出し伏兵で斬らせ、首は建鄴に送られ朱雀航に三日晒された。