南史卷八十 列傳第七十賊臣 侯景
魏の懐朔鎮の人、字は萬景(?–552年)。東魏の権臣高歓に仕えたのち河南の地を制するも、高歓死後は梁に降伏して河南王に封ぜられた。太清二年に豫州で挙兵して建康の台城を包囲・陥落させ(侯景の乱)、簡文帝を傀儡として擁立したのち自ら簒奪して国号を漢とし皇帝を称した。梁を大乱に陥れた簒奪者として知られ、王僧辯の反攻を受けて敗走し、最期は部下に殺害された。
年表(10件)
- 太清元年547年東魏から梁に投降を申し出て河南王・大将軍に封じられる
- 太清二年八月548年豫州で挙兵し朱异ら姦臣討伐を名目に梁への反乱を起こす
- 太清三年三月549年武帝の十の過失を挙げ盟約破棄を天地に告げる
- 太清三年549年台城が陥落し武帝を掌中に収める
- 太清三年五月549年武帝が憂憤のうちに崩御する
- 大寳元年正月550年自ら班劔四十人などを加え権勢を誇示する
- 大寳二年正月551年宋子仙・王偉らを三公に任じ独自の官制を敷く
- 太始元年551年簡文帝を廃し蕭棟から禅譲を受けて皇帝に即位、国号を漢とする
- 景の二年552年劉神茂を処刑するなど圧政を続けるが王僧辯の攻勢に恐怖する
- 景の二年552年王僧辯の軍に大敗し東へ逃亡、最後は羊鯤に殺害される
出自と東魏での経歴
- 侯景(字は萬景)は魏の懐朔鎮の人。若くして不羈で、鎮の功曹史となった。魏末に北方が大乱に陥ると邊将爾朱榮に仕え、深く器重された。榮の部将慕容紹宗に兵法を学び、間もなく紹宗が死去した後、軍功により定州刺史となった。
- はじめ魏の権臣高歡が微賤であった頃、景とは親しく交わっていた。歡が爾朱氏を誅すると、景は衆を率いて降り、歡に用いられて吏部尚書にまで至ったが、これは景の望むところではなく、常々「いつになったらこの反故紙(文書仕事)から離れられるか」と嘆いた。まもなく濮陽郡公に封ぜられた。
- 歡が沙苑の戦いに敗れた際、景は「宇文泰は戦勝に驕っている、今なら必ず油断がある、数千の精騎で關中を衝いて泰を捕えたい」と進言したが、歡は妃婁氏の「泰を得ても景を失えば意味がない」との言に従い止めた。
- 後に河南道大行臺・司徒となり、歡に「泰を得られなかったのが恨めしい、兵三万を賜れば天下を横行し、長江を渡って蕭衍(梁武帝)を捕え太平寺の主にしてみせる」と豪語した。歡はその言を壮とし、兵十万を擁させて河南を専制させ、自分の半身のごとく信任した。景は右足が短く弓馬を得意とせず、専ら智謀によった。歡の部将高昂・彭樂は当代随一の勇将であったが、景は彼らを「豕突するだけの者」と常に軽んじた。
- 河南鎮守に赴くにあたり歡に「兵権を遠方に握る以上、姦人の讒言が生じやすいので、書簡には他と違う微かな印を付けてほしい」と請い、以後歡から景への書には子弟にも知らせぬ微点が加えられた。歡が病篤くなり、世子高澄が歡の名を騙って景を召し出そうとすると、景は偽りと見抜いて禍を懼れ、王偉の計を用いた。
梁への降伏と河南での攻防
- 太清元年(547年)二月、景は行臺郎中丁和を遣わして梁に上表し降伏を求めた。武帝が群臣に諮ると、尚書僕射謝舉らは受け入れに反対したが、武帝は従わなかった。その年の正月乙卯に武帝は善言殿で仏経を読み「昨夜天下太平の夢を見た」と語っており、丁和が到着したのがまさに正月乙卯であったことから、武帝はこの符合を以て降伏を受け入れた。
- 景を河南王・大将軍・使持節督河南北諸軍事・大行臺に封じ、鄧禹の故事に倣って承制の権を与えた。高澄は渤海王として父の跡を継ぎ、将の慕容紹宗を遣わして景を長社に包囲させた。景は魯陽・長社・東荆・北兖の割譲を条件に西魏へ救援を求め、魏は五城王元慶らを遣わして救ったため紹宗は退いた。
- 景は再び司州刺史羊鴉仁に援兵を求め、鴉仁は長史鄧鴻に兵を率いて汝水まで進ませたが、元慶の軍は夜のうちに逃走し、鴉仁は懸瓠に拠った。この頃、景の将蔡道遵が北に帰順し景に悔過の志があると伝えたため、高澄はこれを信じて景に書を送り、帰参すれば終身豫州刺史とし部下も咎めず妻子も返すと約したが、景は従わなかった。澄は景に帰心がないと知り、続けて軍を発して討伐させた。
- 武帝は鴉仁が懸瓠を確保したことを聞き、諸将に指図して東魏を大挙攻めさせ、貞陽侯蕭明を都督としたが、明の軍は敗れて捕虜となった。紹宗は潼州刺史郭鳳を攻め、鳳は城を棄てて逃げた。景は行臺左丞王偉・左戸郎中王則を梁の朝廷に遣わして元氏の子弟を魏王に立てるよう献策させ、詔により太子舎人元貞を咸陽王として渡江の後に即位させることとし、乗輿に次ぐ待遇で資給した。
渦陽の敗戦
- 高澄はさらに慕容紹宗を遣わして景を追わせ、景は渦陽に退いて守った。紹宗との間で「客を送るつもりか、雌雄を決するつもりか」「決戦するのみ」との応酬の後に戦端が開かれ、景は誘い込む用兵で紹宗の軍を破った。副将斛律光がこれを咎めると、紹宗は「これほどの強敵を見たことがない、お前が当たれ」と光を出撃させたが再び敗れた。
- 対峙は数か月に及び、景軍は食糧が尽き、兵を欺いて「家族はみな殺された」と偽ったが、紹宗が「お前たちの家族は無事だ」と呼びかけたため、北人である景の兵は動揺し、将の暴顯らが次々と紹宗に降った。景軍は潰滅し、甲士四万人・馬四千疋・輜重一万余両を失った。景は腹心数騎とともに硤石から淮水を渡り、馬歩八百人ほどを収めて南下したが、ある小城で「跛脚奴(足の悪い奴)」と罵られると怒って城を破り、罵った者を殺して去った。
- 紹宗の追撃軍は夜昼行軍する景に迫らず、景が「私を捕えて公に何の益がある」と伝えると、紹宗はこれを見逃した。行き場を失った景に、韋黯に容れられなかった馬頭戍主劉神茂が近づき、「夀陽は近く要害堅固、韋黯は監州に過ぎない、王が郊外に近づけば必ず出迎えに来るのでそこで捕えればよい」と献策した。景がその手を取り「天の教えだ」と応じたが、実際には黯が甲を配って守りを固めていた。景が「事は成らぬ」と嘆くと、神茂は「黯は臆病で智に乏しい、説得できる」と豫州司馬徐思玉を夜間に潜入させ、黯を説得して開門させた。景は黯を捕えて処刑しようとしたが、後に釈放した。
- 景は于子悦を梁の朝廷に走らせて敗戦を報告し、自ら降格を願い出たが、武帝は優詔を下して許さず、逆に物資の補給を認め南豫州刺史に任じた。武帝は景の兵が新たに敗れたことを慮って処遇を変えず、代わりに鄱陽王範を合州刺史として合肥に鎮させた。
対魏和親と婚姻要求への激怒
- 東魏軍が懸瓠を攻めると兵糧が乏しく、羊鴉仁は義陽に退き、懸瓠は魏の手に落ちた。魏はさらに和親を求め、武帝が公卿に諮ると張綰・朱异らはこれを許すべきと進言した。景はこれを聞いて信じられず、鄴の人の偽書を作り「貞陽侯と景を交換したい」と申し出させた。武帝がこれに応じようとすると、舎人傅岐は「窮して帰順した景を見捨てるのは不吉であり、百戦を経た者が易々と縛につくはずもない」と諫めたが、謝舉・朱异は「景は敗残の将、使者一人で片付く」と主張し、武帝はこれに従い「貞陽侯が朝に到れば侯景は夕べに反す」と返書した。
- 景は左右に「江南の老いぼれどもは薄情だ」と語り、さらに王氏・謝氏との婚姻を求めたが、武帝は「王謝は門地が高く釣り合わない、朱氏・張氏以下から探すがよい」と答えた。景は「呉の小娘を奴(自分)に配そうというのか」と激怒し、王偉は「今黙って座しても死、大事を挙げても死、王よ図られよ」と反乱を促した。景はここに反心を固め、支配下の城の住民をことごとく軍士として徴募し、市の租税を停止して代わりに徴収、百姓の子女は将士に配し、錦一万疋を軍衣用に求めた。中領軍朱异は御府の錦は賞賜用に限ると議し青布を代わりに送ったほか、兵器も東冶の鍛工を招いて更に鍛えさせるなど、渦陽の敗戦以来の景の求めに朝廷は寛容に応じ続けた。
- この頃、貞陽侯蕭明が魏から使いを送り講和継続を求めてきたため、武帝はこれに応じ景に固く諫められても和議を進めた。景は表疏で跋扈し言辞も不遜となり、伏挺・徐陵が魏へ使いすることを聞いても意図を測りかねた。咸陽王元貞は景の異志を察して幾度も帰朝を上奏したが、景に「江南平定を目前に何を急ぐ」と引き止められ、恐れて建鄴に逃げ帰り事情を訴えた。景は司州刺史羊鴉仁にも反乱への同調を誘ったが、鴉仁は使者を朝廷に送った。鄱陽王範・羊鴉仁は再三景の異志を上奏したが、朱异は「侯景の残兵が何をできよう」と取り合わず、これがかえって景の謀を後押しした。
挙兵
- 景は上言し「高澄は狡猾なのに信じてよいのか。陛下がその詭計に乗って和睦を求めるのを臣は密かに笑っている。臣は46歳になるが江左に佞臣がいるとは聞いたことがない。江西の一境を賜り臣の統御に委ねよ、許されなければ甲兵を率いて江に臨み閩越へ向かう、朝廷の恥のみならず三公の恥でもある」と迫った。武帝は朱异を通じ「貧しい家でも十人・五人の客なら養えよう、私にはただ一人の客がいるだけなのに恨み言を言わせてしまった、私の落ち度でもある」と答えさせた。
- 景は臨賀王蕭正徳が朝廷を恨んでいることを知り密かに結び、正徳は内応を約した。太清二年(548年)八月、景はついに豫州で挙兵し、城内に将帥を集めて壇に登り歃血の誓いを立てた。この日、地震が起きた。
- 中領軍朱异・少府卿徐驎・太子左率陸驗・制局監周石珍を「姦臣として政を乱している」と名指しし、彼らを除くためと称して甲兵を率い入朝すると宣言、まず馬頭木栅を攻めて太守劉神茂・戍主曹璆らを捕えた。武帝はこれを聞いて笑い「何ほどのことができようか、笞で打つだけで済む」と語り、景を斬った者は南北の別なく二千戸・一州刺史を賞するとの勅を下し、北へ帰りたい者には絹布二万を与えて礼を尽くして送るとした。
- 合州刺史鄱陽王範を南道都督、北徐州刺史封山侯正表を北道都督、司州刺史柳仲禮を西道都督、通直散騎常侍裴之高を東道都督として景討伐に当たらせ、歴陽から渡らせた。侍中開府儀同三司邵陵王綸にも諸軍の統督を命じた。景は王偉と謀り「揚都を直撃すべし、臨賀王が内応し大王が外を攻めれば天下は容易に定まる、兵は拙速を尊び工遅を尊ばぬ、今すぐ進軍すべし、さもなくば邵陵王らに先を越される」と説かれ、九月、狩猟と称して人目を欺いて夀春を発した。偽の中軍大都督王貴顯に夀春城を守らせ、合肥へ向かうと見せかけて実は譙州を襲い、助防董紹先を降して刺史豐城侯泰を捕えた。
長江渡河と建康侵攻の開始
- 武帝は太子家令王質に兵三千を授けて長江の警備に当たらせた。景は歴陽を攻め、太守莊鐵の弟均が夜襲を仕掛けたが戦死、鐵の母は子を愛して降伏を勧め、鐵はその母を敬った景に協力して先導役となった。諸鎮からの報告が相次いだが、朱异はなお「景に渡江の意志はない」と楽観していた。蕭正徳は大船数十艘を荻の実を積むと偽って景の渡河用に用意した。
- 景が江を渡ろうとした際、王質が邪魔になると懼れたが、質が丹陽尹に召還されて自ら退いたことを知り、なお信じられず密偵を送って「質が退けば江東の樹の枝を折って知らせよ」と命じ、確認できると「事は成った」と喜び、采石から渡河し、馬数百疋・兵八千人で都下は気づかなかった。
台城包囲
- 景は姑熟を襲い淮南太守文成侯蕭寧を捕え、慈湖に至った。南津校尉江子一は建鄴に逃げ帰った。事の急を知った皇太子(後の簡文帝)が武帝に善後策を委ねられたいと願うと、武帝は「これは汝の仕事だ、何を問うか」とだけ答え、太子は中書省にとどまって内外を指揮したが混乱して統制が取れなかった。揚州刺史宣城王大器を都督内外諸軍事、都官尚書羊侃を軍師将軍としてこれを補佐させ、南浦侯推に東府城、西豐公大春に石頭城、謝禧に白下城を守らせた。
- 景は朱雀航に至り、徐思玉を遣わして「甲兵を率いて入朝し君側の姦を除きたい」と願い出させ、実際は城中の虚実を探る目的であった。武帝は中書舎人賀季・主書郭寳亮を派遣して板橋で景を労った。賀季が「今回の挙兵は何を名分とするのか」と問うと、景は「帝になるためだ」と答え、王偉が「朱异・徐驎の讒言乱政を除くためだ」と取り繕った。景は暴言を吐いて賀季を留め、郭寳亮のみ帰した。
- かつて大同年間に「青丝白馬夀陽來(青い糸・白馬が夀陽から来る)」との童謡があり、渦陽の敗戦後に朝廷から支給された青布を袍に用いていた景は、白馬に乗り青い糸を轡として童謡に応じようとした。蕭正徳が丹陽郡の兵を率いて景に合流し、建康令庾信が守る朱雀航の橋も、賊軍が鉄面を着けているのを見て庾信の軍が崩れて奪われた。皇太子は自らの馬を王質に与え精兵三千で庾信を援けさせたが、王質軍も交戦前に潰走した。景は勝ちに乗じて闕下に迫り、石頭城・白下城も次々と放棄された。
- 景の軍は台城への攻撃を続け、火をかけて東西の華門を焼いたが城内は水をかけて消し止め、羊侃は東掖門に迫った賊を刺し殺して撃退した。夜、簡文帝は募兵で東宮の建物に火を放たせ、蓄積された図籍数百廚が灰燼に帰した(かつて簡文帝は秦始皇に見立てた人物が現れ焚書を再現する夢を見ており、これが的中したとされる)。景はさらに城西の馬廐・士林館・太府寺を焼き、木驢や雉尾炬などの攻城具を次々投入したが多くの死者を出しつつも落とせず、長囲を築いて城を包囲した。城内は朱异・陸驗・徐驎・周石珍らの誅殺を求める景の要求を拒み、景の首を取った者への懸賞を出した。
蕭正徳擁立と持久戦
- 莊鐵は歴陽から尋陽へ奔り、景城を守る郭駱は景がすでに斬られたと誤って聞き城を棄てて逃げた。十一月、景は蕭正徳を帝に立てて偽位に即かせ、儀賢堂に居らせ年号を正平と改めた(かつて「正平」の言を含む童謡があり、識者は蕭正徳が終には誅されると予見していたという)。景は自ら相国・天柱将軍となり、正徳は娘を景に嫁がせた。
- 景は東府城を攻め、城が陥ちると儀同盧暉略に文武官を裸にして追い出させて殺害し三千余人が死んだ。南浦侯推はこの日殺害された。景は正徳の子見理と暉略に東府城を守らせた。当初、景は武帝がすでに崩じたと偽って唱えていたが、簡文帝が自ら城を巡って軍民を鼓舞し、混乱は収まった。城の東西に土山を築いて城を見下ろそうとした景に対し、城内も対抗する土山を築き、簡文帝以下皆で土運びに従事した。
- 攻めあぐねた景は掠奪に転じ、富家豪族から財を奪い、子女妻妾を軍営に収めた。奴婢に自由を約束して城内から寝返らせ、朱异家の黥奴らが城壁を越えて景に投じるなど士気は乱れた。景軍は積んだ米が尽きると住民から掠奪し、米一升が七、八万銭に高騰、人が人を食らう惨状となった。土山の造営にも住民を酷使し、疲弊した者は殺して山に積まれた。
- 景の儀同范桃棒が密かに二千の甲士とともに景の首を土産に降伏を申し出たが、簡文帝は詐りを疑い決断できず、上(武帝)は「降伏を疑うのは常道に反する」と怒ったが、簡文帝は「もし裏切りなら傾危は取り返しがつかない」と拒み、結局桃棒の企ては露見して味方に殺害された。
邵陵王綸の来援と敗退
- 邵陵王綸が西豐公大春・新塗公大成・永安侯確・南安郷侯駿ら二万の兵を率いて鍾山に進み、景の陣営は動揺したが、愛敬寺下で綸軍が景の別働隊を破った。景は綸の来援を懼れたが、城に迫った綸軍が趙伯超の敗走で崩れ、綸は京口に退いた。捕虜となった西豐公大春や綸の司馬莊丘慧逹らを城下に引き出して降伏を迫ったが、直閤将軍胡子約や広陵令霍儁は「王は小敗しただけで援軍は必ず来る、堅く守れ」と叫び続け、賊に刀で口を傷つけられながらも屈しなかった(霍儁は景に助命されたが、正徳に殺された)。
- 十二月、鄱陽世子嗣・裴之高らが蔡洲に布陣、景は攻城具を続々投入し百道から攻めたが城内の反撃で撃退された。城内外双方に土山が築かれ、太府卿韋黯・左衛将軍柳津らが守った。城内は地道を掘って敵の土山を崩す戦術で対抗し、景は水を引いて臺城前を洪水にする策を用いた。司州刺史柳仲禮・衡州刺史韋粲・南陵太守陳文徹らが次々と援軍として渡江したが、柳仲禮の軍営が朱雀航南、裴之高が南苑、韋粲が青塘と分散し統制が取れず、韋粲は景の急襲を受け大敗して斬られた。柳仲禮も救援に赴くも重傷を負い、以後は渡河を控えるようになった。
- 邵陵王綸・柳仲禮ら援軍諸将は互いに讐敵のように反目し統率を欠き、援軍百万と号しながら実際には掠奪に走ったため、城内から脱出を図る賊もこれを見て思いとどまるほどであった。城内は兵糧が尽き、弩を煮て鼠を燻し雀を捕えて食べ、殿舎の鴿もことごとく食い尽くされた。金銀を集めても食糧は買えず、公私の蔵から集めた五十億万銭も無用となった。城内は疫病が蔓延し人口の大半が失われた。かつて魏が景の反覆を予言する檄文を送っており、その通りとなったことが知られた。
講和と入城
- 景の軍も飢えに苦しみ、劉邈の進言により景は王偉と謀って任約を城北に遣わし、河南の地を返上する条件で偽りの降伏と講和を申し出た。武帝は「死しても和議は結ばぬ」と拒んだが、簡文帝は「城下の盟は恥であるが、これ以上の犠牲を防ぐため」と説得し、武帝は最終的に「お前の判断に任せる、後世の笑いものにならぬように」と許した。
- 景は江右四州の割譲と宣城王大器の人質差し出しを求め、代わりに石城公大款が人質として送られることになった。西華門外で壇を築き、王克・上甲郷侯韶・蕭瑳らと景の儀同于子悦・王偉が盟約を交わした。だが景はその後も種々の口実で軍を城下に留め置き、糧米を石頭城に運び込ませ、援軍として来た南康嗣王会理らの兵にも江路を断つと称して江潭苑への合流を求めるなど、講和は名目に過ぎなかった。
- 湘東王蕭繹(後の元帝)は師を武城に留めたまま撤退の勅に従おうとしたが、記室参軍蕭賁は「臣として兵を挙げた景を見逃せば童子でも斬れる相手を見過ごすことになる」と諫めたものの容れられず、後に讒言により害された。景は援軍の号令不一致と城内の疫病拡大を見て、王偉に「臣として反乱を起こし十旬にわたり宮闕を囲んで妃主を辱め宗廟を穢した以上、もはや逃げ場はない、様子を見よ」と説かれ、武帝の十の過失を列挙する上表を出し、太清三年(549年)三月、太極殿前で盟約違反として景を討つ旨を天地に告げさせた。
台城陥落
- 城の包囲は男女十余万・甲を着けた者三万を数えたが、この時には疫病でほぼ失われ、守備に残るのは二、三千人に過ぎず、路上に屍が満ちて埋葬もできぬ有様であった。羊鴉仁・柳仲禮・鄱陽世子嗣らが東府城北に進軍したが柵が完成する前に景の将宋子仙に敗れ、首級を都に送られた。景はさらに水を引いて攻め、丁卯の日、邵陵王世子子堅の帳内白雲朗・董勛華が城西北楼で賊を引き入れ、五更に城は陥落した。永安侯確・堅兄弟は力戦したが支えきれず、文徳殿の武帝の前で状況を報告した。
- 景は王偉・儀同陳慶を先に宮殿に入らせ「高氏と対立したため帰順したが、上奏が容れられず姦佞に排斥され、やむなく挙兵した、罪は万死に値する」と謝させた。武帝は「景を呼べ」と命じ、景は甲士五百を率いて入朝し拝礼した。武帝は顔色一つ変えず、三公の榻に座らせ「戦陣にあって久しいが労苦であったろう」と労うと景は黙し、出身州郡を問われても答えられず、従者任約が代わりに答えた。渡江時の兵は千人、台城包囲時に十万、今は「天下すべてが我が物」と答えると武帝は俯いて黙した。景は退出後、部下に「戦場で敵を前にしても恐れたことはないが、蕭公と対面すると自ずと畏縮した、天威というものは犯し難い、もう二度と会えない」と語った。
- 簡文帝との対面でも簡文帝は動じなかった。かつて簡文帝が詠んだ雪と月の詩の一句(「無蔕」「無轍」「不安臺」)が後に「無帝」「臺城不安」「邵陵王綸の名(輪に轍なし=援軍の実なし)」を暗示する讖と解された。景は西州に屯し、儀同陳慶に太極殿を守らせて掠奪を行い、後宮の嬪妾や王侯朝士を永福省に集め、東西宮の護衛を廃して武徳殿を王偉、太極東堂を于子悦に守らせ、矯詔で大赦し自ら大都督・都督中外諸軍事・録尚書事となった。城内に積まれた未埋葬の屍は焼却され、臭気は十余里に及んだ。
- 景は矯詔で征鎮牧守を旧職に復させ、蕭正徳を侍中大司馬とした。武帝は表面上抵抗しなかったが内心は憤懣が募り、景が司空を勧めた宋子仙の任用や城門校尉の設置を却下されると意欲を失っていった。五月、武帝は憂憤の末に発病し文徳殿で崩御した。景はこれを秘して二十余日発喪せず、その後簡文帝を即位させた。武帝を安葬した修陵には衛士に釘を打たせ再起できぬようにしたという。
簡文帝擁立下の専横
- 景は矯詔で北人奴婢を解放して兵力に組み込んだ。東揚州刺史臨城公大連が拠る呉興、太守張嵊が拠る郡、南陵以北など、景の号令が及ぶ範囲は呉郡以西・南陵以北に限られていた。六月、景は蕭正徳を永福省で殺し、元羅を西秦王、元景襲を陳留王とするなど元氏の子弟十余人を王に封じ、柳仲禮を使持節大都督とした。
- 十一月、百済の使者が来朝し都城の荒廃を見て道端で号泣し、これを見た景は怒って小莊嚴寺に閉じ込め出入りを禁じた。大寳元年(550年)正月、景は矯詔で自ら班劔四十人・前後部羽葆鼓吹を加え、三月、簡文帝を招いて楽游苑で三日にわたる禊宴を催し、皇太子以下の馬射に金銭を賭けさせるなど権勢を誇示した。宴の際、景は溧陽主(簡文帝の娘)と並んで御床に座り、群臣を侍らせた。
- 四月、景は簡文帝を西州に招き、素輦に四百余人の護衛を従わせる一方、自らは数千の兵を鎧わせて随行させた。簡文帝が悲しみの余り涙を流すと景は「なぜお楽しみになれぬのか」と問い、また簡文帝の願いにより舞を舞わせるなど、屈辱的な饗宴が続いた。この頃、江南は大飢饉で江州・揚州は特に激しく、旱魃と蝗害が重なり餓死者が道に満ち、人肉を食う者まで現れた。景は刑罰も残酷で、石頭に大舂碓を置いて罪人を搗き殺し、東陽の反乱者李瞻を市中で手足を断ち肝腸を裂いて処刑するなど無道を極めた。
- 七月、景は矯詔で自ら相国に進み、太山など二十郡を漢王として封じられ、入朝不趨・賛拝不名・剣履上殿など漢の蕭何の故事に倣う特権を得た。十月には矯詔で自ら「宇宙大将軍・都督六合諸軍事」と号し、簡文帝は「将軍に宇宙の号があろうか」と驚いた。武帝の崩御以来、景と簡文帝は互いに疑わぬことを仏前で誓っていたが、南康王会理の一件を機に景は簡文帝を疑うようになり、王偉の讒言もあって簒奪の心を固めた。
簒奪と漢帝即位
- 大寳二年(551年)正月、景は王克を太宰、宋子仙を太保、元羅を太傅、郭元建を太尉、張化仁を司徒、任約を司空、于慶を太師、紇奚斤を太子太傅、時霊護を太子太保、王偉を尚書左僕射、索超世を右僕射とする独自の官制を敷いた。四月、景は宋子仙を遣わして郢州を陥し刺史方諸を捕え、二十万と号する軍で長江を西上、武帝が生前に語った「上策は巴陵に拠り西上して荆郢を制すること、中策は長沙で兵站を保つこと、下策は巴陵を攻めあぐねて飢えること」のうち、景の軍は下策を採る結果となり、王僧辯・胡僧祐・陸法和らに巴陵で大破され、任約を捕えられ夜逃げした。
- 景は東下していた王僧辯に対抗できず、諸軍が捷を重ねる中、景は建鄴平定の後に簒奪の志を固めていたが、巴陵での敗戦と江郢の喪失で焦り、王偉の勧めもあって簡文帝の廃立を急いだ。太尉郭元建は「主上は仁明であり廃すべきでない」と諫めたが容れられず、景は一旦豫章王棟を皇太孫に立てて禅譲させる形を取り、簡文帝を廃して永福省に幽閉し、豫章王棟を皇帝に立てて太極前殿で即位させ、年号を天正と改めた。この時、永福省から吹いた回風で文物が倒れるという凶事があった。
- 景は司空劉神茂・儀同尹思合・劉歸義・王曄・桑乾王元頵らが東陽で朝廷に帰順するのを見て動揺し、十一月、蕭棟に矯詔で九錫を加えさせ漢国の丞相以下百官を備え、祖父を大将軍、父を大丞相に追崇するなど帝制の準備を進めた。ついに蕭棟に禅譲の詔を発させ、南郊で天を祀って即位したが、大風で旌旗が倒れ儀式は乱れ、識者は不吉の兆と見た。国号を漢、年号を太始(551年)とし、蕭棟を淮陰王として幽閉、梁律を漢律に改めるなど制度を改変した。
- 三公の位を濫授し、宋子仙・郭元建・張化仁・任約が佐命の元功として三公に列し、王偉・索超世が謀主、于子悦・彭儁らが刑戮を主管、陳慶・呂季略・盧暉略・于和・史安和らが爪牙となり、いずれも百姓に対して残虐を極めた。梁人でありながら景に仕えた趙伯超・姬石珍・厳亶・伏知命らも重用された。景の祖父の名にちなんで避諱の改字を行うなど、王偉が独断で祖廟の制度を整え、漢の侯霸を始祖、晋の侯瑾を七世祖とする系譜まで偽作した。
凶兆と衰退
- この頃、都で「的脰烏」「脱青袍」の童謡が流行し、荆州の天子(湘東王)が興るとの予言と受け取られた。景が南郊への道を整えるため文宣太后廟の柏樹を伐らせたところ、切り株から再生し茂ったため、識者は漢宣帝の興隆の瑞祥の再来として陝西(荆州)の興隆を予見した。また景の牀のそばの香炉が理由なく落ちるなど不吉な出来事が続き、識者は湘東王の軍が下ることの兆しと見た。
- 十二月、謝答仁・李慶らの軍が建徳で元頵・李占の柵を大破し、二人を捕えて手足を切って晒したのち処刑した。景の二年(552年)、謝答仁が東陽を攻め、降った劉神茂を大剉碓で足から寸断して処刑し見せしめとした。王僧辯の軍が蕪湖に至ると城主は逃げ、侯子鑒の軍も水軍とともに逆撃されて大敗、景は涙して恐れ慄いた。
- 簒奪後の景は西州の丞相府に将士を集めていた頃とは打って変わり、内に籠って旧将にも会わなくなり、人々の不満が募った。烽火楼から西軍を望んで一人を十人と見誤るほど怯え、王僧辯らが石頭城西に迫ると、景は王僧辯の父の墓を暴いて棺を割り屍を焼くなどの報復に出たが、僧辯の軍に大敗した。
敗走と最期
- 敗れた景は宮中に戻れず、闕下に散兵を集めて逃亡を図った。王偉は剣を按じ轡を控えて「昔から天子に叛いた者に逃げ場があった例があろうか、宮中の衛士でまだ一戦はできる」と諫めたが、景は「かつて北で賀拔勝を破り葛榮を破って高王と並ぶ名声を得た自分が、渡江して臺城を落とし邵陵王・柳仲禮を破った自分が、まさか天に見放されたのか」と嘆き、皮袋に二子を入れて馬鞍に掛け、儀同田遷・范希榮ら百余騎とともに東へ逃げた。
- 王偉は臺城を捨てて逃走し、侯子鑒らは広陵へ逃げた。王克は臺城の門を開いて裴之横を引き入れ、その夜に太極殿など多くの建物が焼け落ちた。王僧辯は武州刺史杜崱に消火させ、簡文帝の柩を迎えて三軍が喪に服した。侯瑱・裴之横が景を東へ追い、偽の神主を宣陽門で焼き、太廟に神主を作り直して図書八万巻を江陵に持ち帰った。都下の戸口は十のうち一、二を残すのみとなり、王琳・杜龕の兵による掠奪は景の暴虐に劣らぬほどで、王僧辯もこれを制止しなかった。
- 逃亡する景の軍は次々に降伏し、赤亭の戦いでは胡僧祐の千の羸兵が任約の二万の精兵を破り、侯瑱が追いついた際には景の兵が戦わず降伏の幡を掲げた。景は腹心数十人と単舸で逃げ、二子を水に投げ落として滬瀆から海に出て胡豆洲に至ったところを、前太子舎人羊鯤に殺され、その屍は王僧辯に送られた。景は身長七尺に満たず、眉目は疎らで秀で、顴骨が高く色赤く鬢が薄く、しばしば振り返る癖があり、識者は「豺狼の声を持つ者は人を食い、いずれ人に食われる」と評したが、その通りとなった。
- 景の妻子は北へ逃れたが、東魏の高澄によって面皮を剥がれ油で煮殺され、娘は宮婢とされ三歳以下の男子は蠶室に下された。後に北斉文宣帝が獼猴の夢を見て、景の遺児も鑊で煮殺され、北にあった子はことごとく絶えた。景は生来猜忌深く殺戮を好み、食事中に人を斬っても顔色一つ変えず、手足を切り舌を割き鼻を削いで日をかけて殺すことを常とした。簒立後は白紗帽に青袍を着け牀に胡牀・筌蹄を置くなど帝の体を成しておらず、義軍が迫るにつれ猜忌はいよいよ深まり、武帝が常にいた殿に登ると芒刺を負うような不安に苛まれ、鵂鶹の鳴き声を厭って山野に鳥狩りをさせるなど心を病んでいた。乗っていた白馬が勝利の前には勢いよく嘶くが、石頭の戦いでは動こうとしなかったなどの逸話も伝わる。
- かつて足に亀のような肉瘤があり、勝敗によって隠現したという。沙門釋宝誌の予言(「掘尾狗子」「懸瓠より起こり三湘に死す」「山家小児が太極殿前で虎視する」など、景の小字「山家小児」を暗示)や、侯の字の分解(人偏に主・人)による予言、武帝の「侯景は帝になれるが百日しか続かぬ」との言が、簒位から百二十日目、正確には即位から百日目の姑熟出発をもって的中したとされる逸話も語られる。太醫令朱耽の夢や、僧侶「僧通」の逸話(景の弓を奪って「敵を得たり」と叫んだこと、塩をこぼした肉を勧められた景が「もっと塩辛くしてほしい」と答え「塩辛くなければ腐る」と返された逸話。後に景の首が江陵で塩五斗とともに送られ的中した)なども伝えられている。
- 景の死後、王僧辯はその両手を切って北斉文宣帝に送り、首を江陵に伝えた。百姓は市で屍を奪い合って食らい、溧陽主もこれに与った。骨は焼かれ灰は酒に混ぜて飲まれた。元帝は首を三日梟し、後に煮て漆を塗り武庫に納めた。かつて江陵に「苦竹町の市南に好井あり、荆州の軍が侯景を殺す」との謡があり、実際に首が届いた先が李季長の邸宅で、その東が苦竹町であったため符合した。景の儀同謝答仁・行臺趙伯超は侯瑱に降り、行臺田遷・儀同房世貴・蔡夀樂・領軍王伯醜らは生け捕られ、房世貴は建康の市で斬られ、残党は江陵に送られた。郭元建は皇太子妃への礼を欠かなかったため侯子鑒に「小恵に過ぎず身を全うできぬ」と評され、北斉に逃れた。