南史卷七十七 列傳第六十七 劉係宗

劉係宗

  • 劉係宗、丹陽の人。若くして書画に巧みで宋竟陵王誕の子景粹に侍書したが、誕が広陵で挙兵し城内の者がみな死罪に処せられる中、沈慶之の勅で係宗だけは赦され東宮侍書とされた。泰始中、主書に転じ寒宦から勲品に至り、元徽初、奉朝請として中書通事舎人を兼ね員外郎に封ぜられ始興南亭侯・秣陵令を帯びた。斉高帝が蒼梧王を廃した翌朝、正直の舎人虞整が酔って起きられぬ中、係宗は喜んで勅を奉り、高帝は「今天地が重ねて開かれた、卿の尽力の日だ」と語り、諸処分・勅令・四方の書疏の書写を任せ、主書十人・書吏二十人を配した。事はすべて意に叶い高帝即位後は龍驤将軍・建康令を除され、永明初、右軍将軍・淮陵太守・中書通事舎人を兼ね、母の喪で解官後すぐ復職した。四年(486年)白賊の唐宇之の乱で宿衛兵が東討する際、係宗を派遣して慰労させ、賊に駆逼された郡県の百姓は問わず人伍に復させた。係宗の報告に上は「この段は戦なくして事が済んだ、百姓は安帖し実に快い」と喜び銭帛を賜った。上が白下城の修築を役の負担から躊躇うと、係宗は東方の丁(人夫)を唐宇之に加担した者への謫役に充てるよう啓し、上はこれに従った。後に車駕が講武に出て白下城を巡覧すると「劉係宗が国家のためにこの一城を得た」と評した。永明中、魏の使者への返答の題を常に係宗に命じ、秘書局もすべて彼に隷させ、少府に転じた。鬱林王即位後、寧朔将軍・宣城太守を除された。係宗は久しく朝省にあり職事に精通し、武帝は常に「学士輩は経国に堪えず読書ばかりだ、経国は劉係宗一人で足りる、沈約・王融など数百人がいても何の用があろう」と評するほど吏事に優れた。建武二年(495年)官に卒した。