出自と行状
- 紀僧真、丹陽建康の人。若くして征西将軍蕭思話とその子恵開に従い賞遇を受けた。恵開は苛烈な性格で僧真も微過で罰せられたが以後も委任され、益州から帰任後は不遇ながら僧真がますます謹んで仕え、恵開は臨終に「紀僧真はまさに富貴となろうが私はそれを見られない」と歎じ、僧真を劉彦節・周顒に託した。恵開が益州にあり反乱に囲まれ危機に陥った際、道人が「城の囲みはまもなく解ける、あなたの家門は後に大興する、外賊の憂いはない」と告げ、恵開は密かに僧真に「わが子弟に異才はない、まさに蕭道成(後の斉高帝)だ」と語った。僧真はこの言葉を憶え斉高帝に仕えることを願い、高帝が淮陰に従軍する際、書題を扱い遠近の書疏に答えた。寒官から高帝の冠軍府参軍・主簿に至った。僧真が蒿艾(薬草)が江に満ちる夢を見て高帝に告げると「詩人が採る蕭とはすなわち艾のこと、蕭生(蕭家)が流れを断つ」と語り、その予兆はこの通りに実現した。
- 後に南台御史を除され、高帝の領軍功曹として廃立を謀る際、僧真は「今朝廷は狂乱し人心は保たれず、天下の望みは袁粲・褚彦回にはない、明公はどうして黙って夷滅を受けるのか、存亡の機、熟慮を仰ぐ」と啓し、高帝はこれを納れた。高帝が広陵に渡って挙兵しようとした際、僧真は「主上(蒼梧王)は狂舋ながら累代の皇基は磐石のごとし、百口が北に渡ってすべてが安全とは限らない、たとえ広陵城を得ても天子は深宮で号令する、明公を逆賊とみなされればこれを避ける術はなく、勝てなければ北へ走るしかない、これは万全の策ではない」と諫めた。高帝は「卿は家を顧みて私に従えないのか」と問うと、僧真は頓首して二心なきを誓った。昇明元年(477年)員外郎・東武城令を除され給事中に転じた。高帝が東府の高楼から石頭城を望んだ際、僧真は「諸将は私に袁粲・劉秉の誅殺を勧めるが私の意ではない」と語られる場にあり、沈攸之の乱で高帝が朝堂に入り石頭が反した夜、宮城から石頭の火光・叫声が聞こえ人々が不測を懼れる中、僧真は「叫び声が絶えないのは官軍が攻めている証、火は賊が自ら城を焼くはずがなく官軍の勝利に違いない」と語り、まもなく石頭平定が伝わった。上(高帝)が新亭に頓した際、僧真は千人を率いて帳内に在った。
- 高帝が領軍府にあった時から僧真に自らの筆跡を学ばせ署名を代行させ、書疏の返答も僧真に委ねたところ「私も見分けがつかない」と笑って評した。淮陰で城を修理した際に得た古い錫の趺九枚に篆文があり誰も読めなかったが、僧真は「なぜこの文字を判読する必要があろうか、これは久遠の物、錫が九であるのは九錫の徴だ」と語り、高帝は「妄言するな」と応じた。高帝が斉公に拝そうとし日取りが決まった頃、楊祖之の謀で臨軒(即位の礼)に難が起きようとしたため僧真は吉辰の変更を勧め、祖之の事は発覚し高帝は「卿の言がなければ小さな狼狽はあったろうが、それも呼沲(後漢光武帝の故事)の氷渡りに異ならない」と語った。中書舎人に転じ、建元初、東燕令を帯び新陽県男に封ぜられ羽林監に遷り尚書主客郎・太尉中兵参軍を経て中書舎人を兼ね、高帝の病篤い時に僧真が遺詔を典(掌)した。永明元年(483年)、父の喪で起用され建威将軍、南太山太守を経て再び舎人となった。僧真は容貌言吐に士人の風があり、武帝は彼を見送りながら「人生に何を家柄で計るべきか、紀僧真こそ堂々たる貴人だ、他の権要は及ばない」と評した。後に前軍将軍に除され母の喪で墓を開いた際、五色の両頭蛇が現れたという。武帝崩後、僧真は号泣して思慕した。明帝は僧真を歴朝の使い勝手の良さから重用し、建武初、游撃将軍・司農を兼ね旧のごとく待遇した。郡に赴かせようとすると僧真は弟の僧猛を鎮蛮護軍・晋熙太守に推挙した。永泰元年(498年)司農卿を除され、明帝崩後は山陵事を掌り廬陵内史として出て官に卒した。僧猛も後に晋熙太守で卒した。兄弟ともに風姿があり隷書をよくし、僧猛はさらに飛白書に優れ「飛白賦」を作った。僧真の子交卿も解用に優れた。宋の道人楊法持は高帝と旧交があり元徽末に密謀を伝え、昇明中に僧正となったが、建元初に還俗して寧朔将軍となり州陵男に封ぜられ、二年、法持を軍主として朐山救援に遣わしたが、永明四年(486年)役使に用いた将客の鮭稟を奪った罪で削封されて卒した。