南史卷七十五 列傳第六十五 顧歡

出自と行状

  • 顧歡、字は景怡、一字は玄平、呉興塩官の人。家は代々農夫であったが、歓だけは学を好み六七歳で六甲(暦法)の推算を覚えた。家貧しく父が田で雀を追わせると「黄雀賦」を作って帰り、雀が稲を食い荒らしたことに父が怒って撻とうとしたが賦を見て止めた。郷里の学舎の壁越しに聴講し忘れることがなく、夜は松の節を燃やし、あるいは糠を燃やして書を読んだ。呉興の邵玄之に五経の文句を学び、同郡の顧顗之がその才を見て子らに交わらせ、その孫顗(顧憲之)も学んだ。二十余歳で豫章の雷次宗に玄儒の諸義を学んだ。母の喪では水漿を六七日口にせず墓の側に廬した。以後仕えず、剡の天台山に館を開いて徒を教え、受業者は常に百人近くに及んだ。歓は早く父を失い、詩の「哀哀父母」を読むたびに書を執り慟泣したため、受学者は「蓼莪篇」を講じなくなった。晩年は服食して人と通じず、朝出れば山鳥が肩に集まり食を取り、黄老と陰陽の書に通じ、術数を多く的中させた。元嘉中に上京し東府に寄住した際、柱に「三十年二月二十一日」と題して東帰したが、後に元凶の弑逆がまさにその年月日であった。弟子鮑霊綬の家の門前の大樹に精魅が現れると影を樹に印して枯死させた逸話や、山陰の白石村の邪病を老子の講義と獄の設置(狐狸黿鼍を捕らえる術)で癒した逸話、孝経を病人の枕に置いて治した逸話も伝わる。
  • 斉高帝の輔政期に揚州主簿に徴され、践阼するとついに至って「山谷の臣顧歓」と称し「政綱」一巻を上表した。員外郎劉思効の上表と併せ美讃の詔が下された。歓が東帰すると帝は麈尾と素琴を賜った。永明元年、太学博士に徴されたが応じず、同郡の顧黯(字は長孺、隠操を持つ)も応じなかった。会稽の孔珪が歓を訪ね四本論を語り合うと、歓は鍾会・王広・李豊・傅嘏らの説の得失を評し「その失は同じだがその道は異なる、いずれも本を昧し末を競うもの」と論じ「三名論」を著してこれを正した。尚書劉澄・臨川王常侍朱広之と論争し、広之(字は処深、呉郡銭塘の人、清言をよくした)が最も精緻であった。
  • 歓は仏道二教の異同を巡って学者が互いに非難し合うのを憂い「夷夏論」を著した。道経に説く老子入関の伝承と、仏経に説く釈迦誕生の伝承を並べ、五帝三皇に仏を聞かず、儒林の宗も老莊に過ぎぬ以上、孔老が聖でなければ誰が聖か、と論じ、道と仏は「その聖は符合し、その跡は反する」と説いた。教化の対象が異なるゆえに礼容・喪葬など風俗の違いが生じるのは当然であり、道は華の風、仏は戎の俗に由来するとし、中夏の者が西戎の法に従い妻子を捨て宗祀を絶つのは礼にもとると論じた。仏を「破悪の方」、道を「興善の術」とし、優劣の分はここにあるとしつつも、なお道を党(贔屓)する論であった。
  • 宋の司徒袁粲は道人「通公」に託して反駁し、「誕降の瑞は老子より先とは限らず、仏経の礼法(三遶)と道の礼法(三環)はともに戎土に限らずこの地にもある、孔老と釈迦は俗を本とする点と出世を宗とする点で帰趣が異なる」と論じた。歓はこれに「道経の作は西周に始まり仏経の伝来は東漢に始まる、年数の懸隔からいえば黄老が先で仏が後であり、佛は戎の俗の悪しきに応じて起こり道は華の風の善きに出た」と反論した。明僧紹も「正二教論」を著し「仏は宗を明かし、老は生を全うする、長生不死を説く道家は老莊の本旨と大いに異なる」と論じた。文恵太子・竟陵王子良は仏を好み、道士孟景翼に仏を礼させようとしたが応じず「正一論」を著して仏の「一音広説」と老子の「聖人抱一」を通じさせようと論じた。司徒従事中郎張翮は「門律」を著し「道と仏は遥かに極まるところ二つではない」と論じたが、周顒は「虚無(道)と法性(仏)はその寂は同じでもその旨は別」と反論した。
  • 歓は口では弁じないが著論に優れ、王弼易の二繋にも注し学者に伝わった。臨終、詩を賦して「五塗(六道)に恒宅なく三清(道教の天)に常舎あり、精気は天に従い游魂は物に随い化す」と志を述べ、剋日を自ら選んで剡山で卒した。享年六十四、身体が香軟であったため道家はこれを「屍解仙化」と呼んだ。旧墓に還葬すると木が連理を生じた。県令江山図が上表し、武帝は歓の子らに文議三十巻を撰させた。
  • また始興の盧度、字は孝章も道術を持ち、若い頃張永に従い北魏を侵し永が敗れた際、淮水に阻まれ追撃を受けたが「もし死を免れれば以後殺生をしない」と誓うと両つの楯が流れ着いて渡ることができた。以後廬陵西昌の三顧山に隠居し、鹿が壁に触れると「お前は私の壁を壊す」と諭すと鹿は去り、池で飼う魚を名で呼んで餌を取らせた。死期を予知して親友に別れを告げ、永明末に寿を全うして没した。