出自と行状
- 禇伯玉、字は元璩、呉郡銭塘の人。高祖の含は始平太守、父の逷は征虜参軍。少くして隠操を持ち欲を寡くし、十八歳で父が定めた婚礼の際、婦が前門から入る間に自らは後門から出て剡の瀑布山に隠居した。寒暑に耐える性で、王仲都に比され、三十余年山中で人と隔絶した。王僧達が呉郡として苦しく礼を尽くして招くと、伯玉はやむなく郡に留まり数言を交わしてすぐ退いた。寧朔将軍丘珍孫が僧達に書を送り「褚先生が貴館を訪れたと聞く、この人は影を没し王侯に事えず高く木食すること年久しい、節を折り賢を好む者でなければ致すことはできない」と称え、僧達は「褚先生と白雲に従うのは旧い、逸人は稀にしか来ないが、今回ようやく招くことができ日夜語り合いたい」と返した。宋孝建二年、散騎常侍楽詢が風俗を視察して伯玉を薦め徴聘したが応じず、斉高帝即位後は手詔をもって呉会二郡に礼を尽くして迎えさせようとしたがなお辞し、帝はその志を尊重して剡の白石山に太平館を立てさせて住まわせた。建元元年、享年八十六で卒し、住んでいた楼にそのまま葬られた。孔珪はその道法を受け、館の側に碑を立てた。