南史卷七十五 列傳第六十五 杜京産

出自と行状

  • 杜京産、字は景斉、呉郡銭塘の人。祖の運は劉毅の衛軍参軍、父の道鞠は州従事で碁を能くした。京産は少くして恬静で栄宦に意を注がず文義を渉猟し、専ら黄老を修めた。会稽の孔顗は清剛峻節の人で一見して款交となった。郡命の主簿・州辟の従事はともに疾と称して赴かず、同郡の顧歓と契りを結び始寧東山に舎を開いて教授した。斉建元中、武陵王曄が会稽にあった時、斉高帝が儒士劉瓛を東に遣わし曄に講義させると、瓛は京産を訪ね「杜生は当今の台尚(模範)だ」と語った。京産が瓛を山舎に招いて講書させると、子の栖が自ら履をはいて瓛の生徒に給仕した。孔珪・周顒・謝瀹らは書を送って親交を通じ、永明十年、珪と光禄大夫陸澄・祠部尚書虞悰・太子右率沈約・司徒右長史張融が表して京産を薦め、奉朝請に徴されたが至らず、会稽の日門山で徒を集めて教授した。建武初、員外散騎侍郎に徴されると「荘生の釣りは白璧のために回れようか」と辞し疾と称して応じず卒した。
  • 会稽山陰の孔道徽は志業を守り仕えず、京産と友善であった。道徽の父の祐は至行が神に通じたとされ、四明山に隠れた際、山谷に数百斛の銭が現れても瓦石同然として動じず、これを採ろうとした樵者の手には砂礫と化したという逸話や、矢を受けた鹿が来て祐が治療して去らせた逸話が伝わる。太守王僧虔は張緒への書に「孔祐は敬康の曽孫、行動は幽祗に通じ、徳は松桂に標す」と称え、主簿に招いたが屈しなかった。道徽も高行を励み、山風を継いで南山に隠居し終身都邑に出なかった。豫章王嶷が揚州として西曹書佐に招いたが至らず、郷里はその徳を宗慕した。道徽の兄子の総は飢寒に遭って衣食を得られなかったが、県令呉興の丘仲孚が推薦して竟陵王侍郎に除されたが応じなかった。永明中、会稽鍾山に姓を蔡という者があり、名は知られず数千頭の鼠を養い呼べば来て去らせれば去ったといい、言動が常ならず時人は「謫仙」と称した。行方は知れない。
  • 京産の高祖子恭以来、子の栖に至るまで代々五斗米道を伝え絶えなかった。栖、字は孟山、清言をよくし琴を弾じた。刺史斉豫章王嶷がその名を聞き議曹従事に辟し西曹書佐に転じ、竟陵王子良もたびたび礼遇し、国子祭酒何𦙍も学士として昏冠の儀を掌らせようとしたが、父の老いを理由に辞して帰養した。栖は肥満していたが、父京産が病んで十日ほどで自分は皮骨だけになるほど痩せ、京産が没すると水漿を口にせず七日間昼夜哭き止まず、祭奠には自ら看視して号泣を止めず、朔望・節歳のたびに哭泣を続け血を数升も嘔いた。当時、東山に隠れていた何𦙍・謝朏が書を送り毀滅を戒めたが、祥禫の夜に父の夢を見て慟哭のうちに絶えた。以前、何𦙍の兄何点は「卿の風韻ではこのままでは長生きできまい」と歎いていたが、その通り享年三十六で卒し、当時の人々は皆惜しんだ。
  • 建武二年、剡県で八歳の小児が母とともに赤斑の病にかかり母が先に没した際、家人が小児にまだ悪いと知らせずにいたところ、小児は「母は病について私によく問うてきたのに、近ごろ声が弱っていたのに今は問わないのはなぜか」と疑い、床から身を投げて母の亡骸のもとに這い寄り、頓絶して死んだ。郷隣がこれを訴え、県令の宗善才が旌表を上表しようとしたが行われなかった。