南史卷七十三 列傳第六十三 孝義上
総序
- 『易』は人の道を仁と義に置く。仁義は君への忠と親への孝を貫く根本の理であり、義は心の内から発するとはいえ外からの感化とも無縁ではない。聖賢の教えはこの理を尽くしている。
- しかし世の風儀が薄れ礼が損なわれると、忠を尽くさず国を支えられない者、孝を尽くさず家を保てない者が現れる。近頃は権勢と利益に人が動き、官途も権勢によって得られ、名誉のために身を捨てる者は少ない。
- 父母の喪の悲しみもすぐに忘れられ、名節を守る者も乱世の前ではすぐに変節する。これは教化の道がいまだ弘まらず、人材登用の道が閉ざされているためである。
- 天性から発し、身を捨てて主君や親を救う者は、たとえ賞罰と無縁であっても、世を治める者が誘い導かなければ、その事跡は民間に埋もれて知られない。それゆえ史書に記して顕彰し、人々を励ますべきである。今、散逸した事跡を捜し集め、欠けた記録を補う。
龔頴
- 龔頴は遂寧の人。益州刺史毛璩に招かれ勧学従事となった。毛璩が譙縦に殺されると、佐吏たちは逃亡したが、頴は号泣して赴き、礼をもって殯葬した。
- 譙縦が宴を設けて招いたとき、頴はやむなく出席したが、楽が奏されると涙を流し「北面して人に仕えながら死ねなかった身が、どうして楽を聞きながら盃を挙げられようか」と述べた。
- 譙縦の大将譙道福が頴を引き出して斬ろうとしたが、道福の母(頴の叔母)が裸足で駆けつけて救い、免れた。譙縦が僭号した後も礼で招かれたが応じず、刃を突きつけられても志を変えなかった。
- 蜀の平定後も節を屈さず、その後の刺史はみな彼を府に招いた。宋の文帝元嘉24年(447年)、刺史陸徽が頴の節義を上表したが、朝命を受けぬまま家で没した。
劉瑜(附・董陽)
- 劉瑜は歴陽の人。7歳で父を失い母に孝を尽くし、52歳で母を失うと3年間塩や乳製品を口にせず、昼夜泣き続けた。喪が明けても20余年、布衣粗食で墓のそばを離れなかった。
- 宋の文帝元嘉の初め(424年頃)に没した。また元嘉7年(430年)、南豫州が西陽県の董陽を推挙した。三世同居で家内和睦であったため、詔で「篤行董氏之閭」と門に榜し、一門の租布を免じた。
賈恩
- 賈恩は会稽諸暨の人。元嘉3年(426年)母の喪に過度に服していたところ、未葬のうちに隣家の火事に見舞われ、妻栢氏とともに号泣して棺を救おうとし、二人とも焼死した。
- 有司が奏して其の里を「孝義里」と改め、租布を免じ、三世にわたり恩を天水郡顕親県の左尉に追贈した。
郭世通(子・原平)
- 郭世通は会稽永興の人。14歳で父を失い、貧しさの中で継母を養った。妻が男児を産んだとき、侍養が疎かになるのを恐れ、涙ながらに子を埋めたと伝わる。
- 母の死後は土を背負って墳を築き、賻助はわずかしか受けなかった。喪が明けても喪服を脱がず、里人は皆その仁孝を敬い名を呼ばなかった。誤って千銭を得た時は本主を探し出して返した。
- 元嘉4年(427年)、大使として天下を巡行した散騎常侍袁愉がその淳行を上表し、文帝は嘉して門閭を榜し租調を免じ、里名を「孝行」と改めた。太守孟顗が孝廉に推したが応じなかった。
- 子の原平(字は長恭)も至孝で、傭賃して父母を養った。貧しく肴が用意できない時は塩飯だけを食べ、家に食物がない日は終日絶食した。父の重病の年月、衣を解かず塩菜も口にしなかった。
- 父の死後、墓の造営を人任せにせず自ら十人を売って費用に充て、術学もないのに自然と墓造りに熟達した。母の喪でも同様に尽くし、髙陽の許瑶之が贈った綿も一度は辞退した。
- 宋の文帝崩御(453年)に際し、原平は日に麦餻一枚のみを5日間食べ続け、「先朝の恩に報いられぬ私の心が動いただけだ」と語った。瓜作りを業とし、大明7年(463年)の大旱の際も公の灌漑水を私用せず遠回りして瓜を売りに行った。
- 船を引く人を助け、闘争に巻き込まれて縛られても義のため一言も弁解せず、罰を受け入れようとした。太守蔡興宗が敬い、米を贈ったが辞退した。明帝泰始7年(471年)、興宗が原平の子を望孝に推挙しようとしたが、明帝の別の勅により両選とも見送られた。興宗は都に召還される際、原平の行いを上表して太学博士に推したが、興宗が薨じて実現せず、原平は家で没した。三子一弟にも家風があった。
嚴世期
- 厳世期は会稽山陰の人。施しを好み、同里の張邁ら三人の妻が飢饉の年に子を産み棄てようとしたのを、衣食を分け与えて助け三子とも成長させた。
- 同県の俞陽の妻荘と娘の闌が老病無依であったのを20年養い、死後は殯葬した。宗親の厳弘や郷人潘伯ら15人が荒年に餓死し放置されていたのを棺で葬った。
- 宋の元嘉4年(427年)、有司が奏して門に「義行厳氏之門」と榜し、徭役を免じ租税を10年蠲じた。
呉逵
- 呉逵は呉興烏程の人。飢饉と疫病により父母兄嫂ら一族13人が死去し、逵自身も病に倒れた。隣人が葦席で遺体を包んで村外に葬った。
- 夫妻のみ生き残り、家は貧しく冬に衣もなく、昼は雇われ夜は木を伐り煉瓦を焼いて働いた。1年で7墓を造り13棺を葬った。隣里はその孝義を称え、葬儀を助けた。
- 太守張崇之が三度礼をもって招き、太守王韶之は功曹史に抜擢したが、家柄が卑しいことを理由に固辞し、孝廉に推挙された。
潘綜(附・陳遺、秦綿)
- 潘綜は呉興烏程の人。孫恩の乱の際、父の驃と共に賊から逃げたが、老いた父が動けなくなり「お前だけ逃げよ」と言った。綜は賊に父の命乞いをし、父も自らの死を賊に願い出た。
- 賊は驃を斬ろうとし、綜は父を庇って四創を受け昏倒したが、傍の一賊が「孝子を殺すのは不吉」と止め、父子ともに助かった。
- 郷人の秘書監丘系祖と廷尉沈赤黔の推挙により左戸令史となり、遂昌長に任じられた。太守王韶之がその行状を上表し、四言詩を贈って送った。元嘉4年(427年)、里を「純孝里」と改め租布を三世蠲じた。
- 宋初の呉郡の陳遺は、鍋底の焦げ飯を好む母のために常に袋に集め、後の孫恩の乱の逃避行でこれが命を救った。母は号泣で失明していたが、遺が戻ると視力が回復したという。
- 河南の孝廉秦綿は母の喪に葬送後も廬に留まり、粥もない日は菜だけを食べて悲しみ続け、喪が明けても帰宅せず病に倒れて没した。
張進之(附・俞僉、張楚)
- 張進之は永嘉安固の人、郡の大族。荒年に財を散じて郷里を救い、太守王味之が罪に問われ逃避してきた際は誠を尽くして匿った。味之が水に落ちた時は自ら飛び込んで救った。
- 劫賊が横行した際も進之の門は侵さぬよう誓い合われるほど信義を得た。元嘉の初め(424年頃)に詔で徭役を免じられた。
- 孫恩の乱で永嘉太守司馬逸之夫妻が殺された際、郡吏の俞僉が私財を投じて六柩を都まで送葬した。また益州梓潼の張楚は母の病に指を焼いて祈り、快癒させた。里を「孝行里」に改め租布を三世蠲じ、旌命を加えられた。
丘傑
- 丘傑(字は偉跱)は呉興烏程の人。14歳で喪に服し生野菜以外を口にしなかったが、夢に亡母が現れ「無理をせず薬を服せ」と告げ、実際に薬を得て回復した。この甌は丘氏に代々伝わったが、大明7年(463年)の火災で焼失した。
師覺授
- 師覚授(字は覚授)は南陽湼陽の人。外兄の宗少文と共に琴書を楽しんでいたが、ある日「至孝師君」と記された書を持つ人物を見て、家に帰ると父の喪の声を聞き号泣して蘇生した。
- 後に『孝子伝』8巻を著した。宋の臨川王義慶が州の祭酒主簿に招いたが応じず、表薦されたが間もなく没した。
王彭
- 王彭は盱眙直瀆の人。母を早くに失い、元嘉の初め(424年頃)父も亡くし、兄弟二人で昼は雇われ夜は号泣した。塼を焼くための水を得ようと井戸を掘っても水脈がなく、天に訴えたところ大霧の後に泉が湧いたという。葬儀が終わると泉は自然に涸れた。
- 元嘉9年(432年)、太守劉伯龍が上表し、里を「通霊里」と改め租布を三世蠲じた。
蒋恭
- 蒋恭は義興臨津の人。元嘉中、晋陵の蒋崇平が劫として捕らわれた際、恭の妻の弟呉晞張の一族が恭の家に避難していたことが発覚し、恭と兄の協が投獄された。
- 恭は妻の親族をかくまった罪を一身で負おうとし、協は戸主として罪を負おうとし、兄弟が互いに罪を求め合った。州の議によりいずれも罪に問われず、後に恭は義成令、協は義招令に任じられた。
徐耕(附・厳成、王道盖)
- 徐耕は晋陵延陵の人。元嘉21年(444年)の大旱で人々が飢えると、県に米千斛を献じて振貸を助け、漢の卜式に比され県令を授けられた。大明8年(464年)の東土の飢饉でも東海の厳成と東莞の王道盖が私穀五百余斛を献じ振恤を助けた。
孫法宗
- 孫法宗(一名宗之)は呉興の人。父が孫恩の乱に従い海で殺され遺骸は収められず、母兄も飢えで死んだ。16歳でようやく戻り、単身で棺槨を営み母兄を丁重に葬った。
- 父の遺骨を求めて海辺を巡り、血で骨を潤せば肉親のそれと分かるという説に従い、10余年にわたり枯れた骨を刻んでは血を注ぎ続けたが、ついに見つけられず、終身喪に服し墓のそばに暮らした。
- 山禽野獣が懐き、罠にかかった鹿は放してやり、代わりに金銭を置いた。頭の傷を天の使いという女性に牛糞で治され、以後生涯不婚で贈り物も受けなかった。宋の孝武帝の初め、揚州が文学従事に招いたが応じず没した。
范叔孫(附・呉国夫)
- 范叔孫は呉郡銭唐の人。仁厚で困窮者を助けた。同里の范法先の一家が疫病で全滅しかけた際に棺で殯葬し、施夫や范苗父子、范敬宗の家族の病没者も次々に葬った。郷里は名を呼ばずその義行を貴んだ。
- 宋の孝武帝孝建の初め(454年頃)、竟陵王国の中軍に除せられたが応じなかった。義興の呉国夫も義譲の美風で知られ、稲を盗んだ者に酒食を振る舞い米を与えた。
卜天与(附・張弘之、天生)
- 卜天与は呉興余杭の人。宋の武帝に幹力を認められ隊主に補され関中侯に封ぜられた。文帝の代、皇子に弓を教えた。元嘉29年(452年)、元凶劭の弑逆の際、旧将らが降参する中、天与は独り応戦して罵倒したが撃たれ腕を断たれて殺された。
- 隊将の張弘之・朱道欽・陳満も同時に戦死した。孝武帝即位後、天与に龍驤将軍益州刺史・諡「壮侯」を追贈し、弘之らも郡守を追贈された。子の伯宗は殿中将軍となり、明帝泰始の初め赭圻の戦いで戦死。伯宗の弟伯興は南平昌太守に至り、昇明元年(477年)袁粲に連座して誅された。
- 天与の弟天生は少壮の隊将で、竹の先を尖らせた坑を平然と跳び越えるほどの豪胆さで知られた。兄の死節を惜しまれ孝武帝に用いられ、大明末に弋陽太守となったが、明帝泰始の初め殷琰に与して斬られた。
許昭先
- 許昭先は義興の人。叔父肇之が事件で7年獄に繋がれた間、20余人の子姪の中で最も貧しい昭先が一人訴訟に奔走し、家財を尽くして差し入れを続けた。尚書沈演之がその操行を嘉し、肇之は釈放された。
- 舅夫妻が疫病で死んだ際は衣を売って葬送し、遺児を養育した。父母には老いてなお孝養を尽くした。雍州刺史劉真道が徴虜参軍に推したが親のために辞退し、主簿への招きも叔父が未仕官のためと固辞した。
余齊人
- 余斉人は晋陵の人。宋の大明2年(458年)、父の死を知らせる使者が来る前に胸の痛みを感じ、報せを聞いて400余里を一日で駆け戻った。父の遺言「お前に会えなかったのが心残り」を聞くと号泣し、その場で息絶えた。
- 有司が奏して里を「孝義里」と改め租布を蠲じ、母に穀百斛を賜った。
孫棘(附・徐元妻許、呉慶恩)
- 孫棘は彭城の人。宋の大明5年(461年)、弟の薩が兵役の期限に遅れ死罪に問われた際、棘が家長として自らの命で贖おうとし、薩もまた兄を庇おうと自訴した。太守張岱が真偽を疑い別々に尋問したが、両者とも死を望んだ。
- 棘の妻許も「兄が当主なのだから」と夫を励ました。孝武帝は特に罪を赦し、州は辟命し帛20疋を賜った。
- また新蔡の徐元の妻許は21歳で夫を失い、父が改嫁させようとしたが自ら首を吊って抗い、元嘉中に徐氏で養われた父季は80余歳で没した。明帝泰始2年(466年)、長城の呉慶恩が銭仲期の子延慶を殺した事件では、都で父の死を知った延慶が急遽帰郷し慶恩を殺害、自首したが、太守郗顒の上表により罪に問われなかった。
何子平
- 何子平は廬江灊の人。曽祖楷は晋の侍中、祖友は会稽王道子の驃騎諮議参軍、父子先は建安太守。会稽に世居し、母への孝行に篤かった。揚州従事史の俸で白米を得ても粟麦に換え「東の老母の分を独り白米で食すに忍びない」と語った。
- 母の戸籍年齢が実際より若く記載されていたため、まだ孝養が足りぬうちに退職せねばならず、鎮軍将軍顧覬之が留任を勧めたが「戸籍を偽って栄利を貪れない」と辞した。
- 元嘉20年(443年)、元凶弑逆の際は随王誕の討伐軍に加わったが、凶逆討伐という道理からいったん受けた職を私事で辞せぬと判断し、後に呉郡海虞令に任じられた際も俸禄は母のためだけに使い妻子には及ぼさなかった。
- 母の喪では哀毀のあまり礼を超え、大明末(464年頃)東土の飢饉と戦乱で8年も葬儀ができず、冬も綿入れを着ず粥だけで過ごした。屋根の修理も拒み「まだ罪を償っていない身に屋根はいらぬ」と語った。
- 太守蔡興宗が墓所を営んでやり、喪が明けても瘦せ細り立てぬほどであった。学問に精しく黙して貧を守り、栄進を求めぬ態度で名声を得、60歳で没した。
崔懐順
- 崔懐順は清河東武城の人。父の邪利は魯郡太守であったが、宋の元嘉中に魏に捕らわれた。懐順は妻の房氏とともに喪に服するように布衣蔬食で過ごした。父が魏で仕官し離縁の書を送ってきても、懐順はさらに号泣した。
- 従叔の模も滎陽太守で魏に捕らわれたが、模の子は節を変えず婚宦を続けたのに対し、懐順は宗人の元孫(冀州刺史として魏に使した)に「忠孝並び弘まる道を」と評された。
- 宋の泰始の初め(465年頃)淮北が魏に入ったのを機に北へ向かい、代都に着くが父はすでに没していた。懐順は絶して蘇生し、氷雪の中裸足で喪柩を青州へ送った。孝感と評された。
- 喪が明け、弟が南の斉にいたため建元初(479年頃)に逃げて帰ろうとしたが弟はすでに没していた。貧窮の中、宗党が日々米を与え、永明中(483〜493年頃)に没した。
王虚之(附・顧昌衍、江柔之、江軻)
- 王虚之(字は文静)は廬江石陽の人。13歳で母を、33歳で父を失い、25年間塩や酢を口にしなかった。病床にある時、旅の人が現れ「病はすぐ治る」と告げ姿を消し、実際に快癒した。庭の楊梅の木が真冬に実をつけ、夜には墓上の橘の木が光を放つなど孝感の奇瑞が語られた。斉の永明中、詔で門を榜し三世を蠲じられた。
- 同時代、顧昌衍・江柔之・江軻も篤行で知られた。呉の顧昌衍は喪で命を落としかけ、王儉が「張永の甥でもある」と天子に言上し尚書庫部郎に任じられた。済陽の江柔之(字は叔遠)は孝悌篤実で台郎に至り、江軻(字は伯倫)も貞厳な行いで知られ、豪奢な宗人の江槩も軻には敬意を払った。
呉慶之
- 呉慶之(字は文悦)は濮陽の人、江興に寓居した。宋の江夏王義恭に召され揚州の西曹書佐となったが、義恭が誅されると自らを恥じ、以後仕官せず終身蔬食で過ごした。太守王琨が功曹に招いたが「魚を樹に養い鳥を泉に棲ませるようなものだ」と辞退し、琨は追いつけぬほど恐縮して謝した。
蕭叡明(附・朱緒、鮮于文宗)
- 蕭叡明(字は景済)は南蘭陵の人。母の風病を治そうと昼夜祈禱し、寒中に流した涙が額の血とともに凍りついた。夢のような小石函の薬で母が回復したという逸話が伝わる。
- 秣陵の朱緒は母の望んだ菰羹を自ら先に食べてしまい、母の怒りの言葉のとおり血を吐いて急死した。叡明はこれを聞き自らも食を絶ち悲しんだ。永明5年(487年)母の喪で没し、中書郎を追贈された。
- また漁陽の鮮于文宗は7歳で父を失い、以後生涯芋の季節になると亡父を偲んで泣いた。姉文英は嫁して7日で夫を失い節を守ったが、母の喪で哀しみのあまり失明した。
蕭矯妻羊(附・多数)
- 蕭矯の妻羊(字は淑禕)は父の喪で吐血するほど孝心が篤く、母の病の際は夢に現れた「枯桑君」の教えで白石を用いて治した。
- 羊緝之の娘佩任は烏程の人で、母の死に三日絶食して自らも没し「女表」と称された。晋陵の呉康之の妻趙氏は父を失い困窮の中母を養い、再嫁の誘いも拒んで節を守った。義興の蒋雋之の妻黄氏も再嫁を強いられ自殺を図って拒んだ。建元3年(481年)、これら女性の門閭が表彰された。
- 会稽永興の呉翼之の母丁氏は仁愛深く、荒年に食を分け、隣人の孤児陳攘を養い婚娶させ、王礼の妻徐の葬儀も助けた。元徽末(477年頃)の大雪の際も塩米を分配し、左僑家の葬儀を援助した。長子の妻王氏は寡婦の節を守り、詔で門閭が表彰された。
- 会稽の寒門陳氏の三姉妹は父母祖父母を養うため西湖で菱を採り市で売り続け、長女は独り身を貫き婚を拒んだ。永興概中里の王氏の娘は5歳で失明したが、父の死に号泣すると涙とともに目が開いたという。
- 諸暨東洿里の屠氏の娘は失明した父と病母を養い、殯葬後は巫術で人の病を治したが、兄弟なきゆえ墓を守るとして婚を拒み、山賊に殺された。呉興の乗公済の妻姚氏は夫と兄の死後、二子を育て、明帝の詔でその婚礼が表彰された。呉郡の范法恂の妻褚氏は反乱に連座した孫曇瓘の遺骸を子に葬らせ、70余歳で没した。
公孫僧遠
- 公孫僧遠は会稽剡の人。父の喪に至孝を尽くし、飢饉の年には食を減らして母と伯父を養った。兄弟の葬儀も貧しい中、自ら物を売って費用を賄い、姉妹の婚礼も自らを売って整えた。斉の高帝即位後、詔使が上表し門閭を表彰された。
呉欣之(附・童超之)
- 呉欣之は晋陵利城の人。宋の元嘉末、弟慰之が随王誕の起義に連座し捕らわれた際、欣之が自ら代わりの死を乞い、兄弟とも許された。斉の建元3年(481年)門が表彰された。永明の初め(483年頃)、広陵の童超之の二子も互いに死罪を代わろうと争い、太守劉悛が上表した。
韓係伯(附・聞人夐)
- 韓係伯は襄陽の人。隣人と桑の木の境界を争った際、自ら数尺譲って隣人が再び侵しても改めて譲り続けた末、隣人が恥じて土地を返した。斉の建元3年(481年)門閭が表彰され天寿を全うした。呉興の聞人敻は17歳で客を集め父の仇を報い、高帝に賞され長水校尉に至った。
丘冠先
- 丘冠先(字は道玄)は呉興烏程の人。斉の永明中、給事中として蠕蠕(柔然)へ使者に立った際、王儉に「蘇武・鄭衆の類」と評された。蠕蠕が拝礼を強いたが節を曲げず「天子の使者として夷狄に拝することはできぬ」と刃に臨んで殺された。
- 武帝はその節を賞し子の雄に銭一万・布三十疋を賜ったが、雄は受けず「父は蘇武・谷吉のように節を尽くしたのに、僧朗(同時代の使者)は生きて帰り贈官されたのに父は絶域に埋もれたまま」と上書して哀贈を求めたが、聞き入れられなかった。
孫淡
- 孫淡は太原の人、長沙に世居した。母の病に自ら眠らず食を減らして看病し、死後もその苦労を悟らせなかった。斉の建元3年(481年)門閭が表彰され、家で没した。
華宝(附・薛天生、劉懐胤・懐則)
- 華宝は晋陵無錫の人。父豪は晋の義熙末、長安に出征する際「帰れば元服させる」と約したが長安は陥落し戻らなかった。宝は70歳になっても不婚のまま、この話をされるたびに号泣した。
- 同郡の薛天生も母の喪に菜食を貫き、母が喪の途中で死ぬと終身魚肉を断った。同郡の劉懐胤・懐則兄弟も10歳で父を失い、喪に絹綿・塩菜を断った。斉の建元3年(481年)ともに門閭が表彰された。
解叔謙(附・宗元卿、庾震、文済、匡昕、康祚、謝昌㝢)
- 解叔謙(字は楚梁)は雁門の人。母の病に夜庭で祈禱すると、空中の声で「丁公藤の酒を服せば治る」と告げられ、医書にも記載がなく、宜都郡の山中で老人からその薬を得て酒に漬け、母を治した。斉の建武初、奉朝請に徴されたが応じなかった。
- 同時代、南陽の宗元卿(字は希蔣)は祖母が病むと遠方にいても心痛を感じ、大病・小病に応じて痛みの大小が変わったという。新野の庾震(字は彦文)は貧のため書写で葬費を稼ぎ、南陽の劉虬が『孝子伝』を撰する契機となった。
- 呉興の文済(字は敬達)は自らを売って母を葬った。廬陵の匡昕(字は令先)は金華山に隠棲していたが母の死を知り駆けつけ号泣すると母が蘇生したという。扶風の康祚は母の乳癰を涙ながらに自ら口で治し屯騎校尉に至った。陳郡の謝昌㝢は劉悛の広州参軍で、飼っていた鵠が主の病と共に絶食し、死後は飛び去った。
韓霊敏
- 韓霊敏は会稽剡の人。兄霊珍と共に孝心篤く、母の死後貧のため葬儀に窮したが瓜を植えて費用を賄った。霊珍が子なく没した後、その妻胡氏の節を守らせるため、霊敏は実の母のように仕えた。
劉渢(附・弟溓、柳叔夜)
- 劉渢(字は処和)は南陽の人。父紹は宋の中書郎。渢は幼くして母を失い、継母路氏に虐待されたが亡母を悲しみ続け、路氏の病では昼夜看病し慈愛を得た。異母弟の溓とは兄弟として親密であった。
- 斉末、遥光の謀反の際、渢は丹陽丞として距離を置いていたが、召還されて事に関与を余儀なくされる。渢は暢とともに遥光を諫めようとしたが聞き入れられず、遥光敗死の際、弟溓が兄を見捨てず共に殺された。何𦙍は「兄は君難に死し、弟は兄の禍に死んだ」と評した。
- また河東の柳叔夜(父宗は宋の黄門郎)も16歳で新野太守として名声を得たが、遥光に仕えた縁で事変に殉じ「始安王に死を誓った以上、裏切れぬ」と自殺した。
封延伯(附・多数)
- 封延伯(字は仲連)は渤海の人、東海に寓居し三世同財、北州に重んじられた。垣崇祖の招きに応じず、豫州で表薦され平西長史・梁郡太守を歴任し、清静な政績で高士の風があったが病で退いた。
- 建元3年(481年)大使の巡行により、義興の陳玄子(四世同居百七口)、武陵の邵栄興・文献叔(八世同居)、東海の徐生之、武陵の范安祖・李聖伯・范道根(五世同居)、零陵の譚弘宝、衡陽の何弘、華陽の陽黒頭(疎従四世同居)が門閭を表彰され租税を蠲じられた。蜀郡の王続祖、華陽の郝道福も累世同爨として建武3年(496年)明帝の詔で表彰された。
呉達之(附・蔡曇智、何伯璵)
- 呉達之は義興の人。嫂の葬儀のため自らを十人分の労役に売って費用を作った。従祖弟の敬伯夫妻が荒年に江北へ売られたのを田十畝を売って贖い、同居した。郡命の主簿は兄に譲り、家産も族弟に譲って自らは困窮した。建元3年(481年)門が表彰された。
- 同時代、蔡曇智は「蔡曾子」と呼ばれ、廬江の何伯璵兄弟は「何展禽」と呼ばれた。高士沈顗は「蔡曇智の風を聞けば怯夫も勇み、鄙夫も志を立て、何伯璵の風を聞けば偽夫も正しくなり薄夫も厚くなる」と評した。伯璵と弟の幼璵は節操を厲まし、兄の子を養い、家業を子に譲って清貧に甘んじた。
王文殊
- 王文殊(字は令章)は呉興故鄣の人。父が魏で没すると終身蔬食し、麻の粗衣を着て婚もせず人と交わらなかった。呉興太守謝𤨏の招きにも応じず、県西に小屋を建て30余年北を望んで悲しみ続けた。太守孔琇之がその行いを上表し、鬱林王の詔で門を榜し里を「孝行里」に改めた。
楽頤之(附・弟預、沈昇之)
- 楽頤之(字は文徳)は南陽湼陽の人、南郡に世居した。父が郢で病没した際、直感で不吉を悟り駆け戻ったが果たして父の訃報に接し、裸足で号泣し海路を戻る間水も口にしなかった。母への孝も篤く、湘州刺史王僧虔の主簿を辞し、庾杲之の粗食にも母の心遣いで魚羹が出たという逸話が伝わる。
- 弟の預(字は文介)も至孝で、父の臨終の託を受けた郢州行事王英に代わり悲しみのあまり吐血した。隆昌末、丹陽尹徐孝嗣に対し「禇公(禇淵)の故事のように人に笑われるな」と諫め、故吏の沈昇之も同様に諫めた。預は建武中に永世令として徳政を残し、卒官の際は市人まで嘆いたという。
江泌
- 江泌(字は士清)は済陽考城の人。父の亮之は員外郎。泌は貧しく昼は屧(げた)を削り夜は月光で読書し、月が傾くと屋根に登って読み続けた。衣服の虱を凍え死なせぬよう綿にくるんで置いたという逸話がある。
- 母の死後は食を慎み、母の墓が野火で焼けた際は三日血の涙を流した。募集吏が病死した際は自ら葬儀を営んだ。梁の武帝に南康王子琳の侍読とされ、建武中に諸王が害された際、子琳の死を知り誌公道人に問うたが凶兆を告げられ、子琳が害されると血の涙を流し親しく葬儀を営んで自らも間もなく没した。
- 族人の兖州中従事江泌(黄門郎江悆の子)と同名だったため、世間は本人を「孝泌」と呼び区別した。
庾道愍(附・族孫沙彌、沙彌子持)
- 庾道愍は頴川鄢陵の人、晋の司空氷の玄孫。孝行深く文才もあった。生母が交州に流されていたことを知り、広州綏寧府佐となって南下し、危険を冒して交州へ赴き、ついに薪を背負う母と再会を果たした。
- 相術に精しく、宋の明帝の時、山陽王休祐が言葉の禍を恐れ、自らの板(占い道具)を偽って他物として道愍に占わせた逸話がある。斉に仕え射声校尉に至った。
- 族孫の沙弥(晋の司空氷の六世孫、父佩玉は宋の長沙内史で沈攸之事件に連座し誅された)も孝行で知られた。5歳の時、生母が仕立てた綵衣を「家の禍のせいで着られない」と拒んだ。嫡母劉氏の病に自ら鍼灸を試し、死後は水漿を絶ち大麦の薄粥のみで喪に服し、塩酢・綿を断って廬を出なかった。墓に松が生え、劉氏が好んだ甘蔗も断った。
- 宗人の都官尚書詠の推挙で梁の武帝に召され歙令となり、輕車邵陵王参軍事として赴任中、生母の喪に舟が沈みかけたが柩を抱いて号泣すると風が静まり孝感と称された。長城令で没した。
- 子の持(字は元徳)も幼くして父を失い至孝、篤学であった。梁で尚書左戸郎、後に建康監、陳の文帝の呉興太守丞、天嘉初(560年頃)尚書左丞・崇徳県子に封ぜられた。任官の日、令史に贈り物を受けさせて文帝の怒りを買い免官、その後臨安令で杖殺事件に連座して免官となったが、給事黄門侍郎・塩官令・秘書監・少府卿・太中大夫領歩兵校尉を歴任して没した。奇字を好む文章家で、文士に譏られもしたが文集10巻がある。