呉均体
- 呉均、字は叔庠、呉興故鄣の人。家柄は貧しかったが学を好み俊才があった。沈約が彼の文を見て称賛した。梁の天監初年、柳惲が呉興太守となり主簿に招き詩を賦させ、その文体は清抜で古風があり「呉均体」を真似る者もいた。呉均は不遇の際、恵を贈らず離去したが柳惲は元通りに扱い恨みを持たなかった。臨川靖恵王に推薦されると王は武帝に称賛し、その日のうちに召されて詩を賦させ喜ばれ、待詔著作から奉朝請に進んだ。かねてより歴史書で名を成そうと斉書を著そうとし起居注や群臣の行状を借りようとしたが武帝が許さなかったため私的に「斉春秋」を撰して奏上、この書では帝を斉明帝の佐命の臣として記し、帝はその実録ぶりを嫌い、書が不実として中書舎人劉之遴に数十条を詰問させたが呉均は支離滅裂で答えられず、書は焚かれ免職となった。まもなく召し出され「通史」の編纂を命じられ三皇から斉代までの本紀・世家を作り上げたが列伝は未完のまま没した。呉均は范曄後漢書に注90巻、斉春秋20巻、廟記10巻、十二州記16巻、銭塘先賢伝5巻、続文釈5巻、文集20巻を著した。この前、済陽の江洪という詩人がいて建陽令として事件に連座し死んだ。