千字文の作者
- 周興嗣、字は思纂、陳郡項の人、代々姑熟に居住した。博学で文をよくし、あるとき姑熟から旅の宿に泊まった夜、ある人が「そなたの才学は世に抜きんでている、まもなく貴人に見出されるだろう」と告げ、その言葉通り英主に知られることとなったが、告げた者の行方は分からなかったという。斉の隆昌中(494年)侍郎謝朏が呉興太守となった際、興嗣とだけ文史を語り、離任後もその才を大いに推薦した。梁の天監初年、休平賦を奏上しその文章は美麗で武帝は喜び安成王国侍郎・直華林省とした。その年、河南から舞馬が献上され、興嗣は待詔の到沆・張率とともに賦を作り、帝は興嗣の作を最も評価し員外散騎侍郎、直文徳寿光省に進めた。武帝が三橋の旧宅を光宅寺とした際、興嗣と陸倕にそれぞれ寺碑を作らせ、以後、銅表銘・柵塘碣檄・魏への文書・王羲之の書に次韻した千字文など、興嗣に多くの文を委ねた。上奏するたびに帝は称賛し金帛を賜った。国史編纂も助けたが、両手が風疽を患い、天監12年(513年)にはさらに癘疾(らい病)に罹り左目を失明した。帝は手を撫でて「この人にこの病とは」と嘆き、疽の薬方を賜った。任昉も彼の才を惜しみ「この病がなければ旬日で御史中丞になれただろう」と語った。天監17年(518年)給事中・直西省となり、周捨が武帝の歴代賦に勅命で注を付ける際に興嗣が助けた。普通2年(521年)没した。皇帝実録・皇徳記・起居注・職儀等百余巻、文集10巻を撰した。