文心雕龍の著者
- 劉勰、字は彦和、東莞莒の人。父劉尚は越騎校尉。勰は早くに父を喪い篤学だが貧しく妻を娶らず、沙門僧祐のもとに寄寓し博く経論に通じ、定林寺の経蔵の部類分けと目録編纂は勰が行ったものである。梁の天監中、東宮通事舎人を兼ね、七廟の祭祀ではすでに蔬果を用いるようになっていたが二郊(天地の祭)と農社の祭にはなお犠牲が用いられていたため、勰は二郊も七廟と同様に改めるべきと上表し、詔で尚書に議させ勰の意見が採用された。歩兵校尉に転じても舎人を兼ね、昭明太子に深く愛された。勰が撰した「文心雕龍」50篇は古今の文体を論じたもので、その序に「私は三十を過ぎた頃、丹漆の礼器を執り仲尼に随って南行する夢を見た。目覚めて『聖人に見えることの何と難しいことか、小子がこうして夢にまで見るとは』と喜んだ。生きとし生ける者以来、夫子ほどの人はいない、聖旨を敷き広めるには経に注するのが一番だが馬融・鄭玄らの諸儒が既に精緻に注釈しており、深い解を持つ者もそれ以上に一家を立てるのは難しい。文章の効用こそ経典の枝条であり、五礼はこれによって整い六典はこれによって用をなす。そこで筆を執り文について論じ始めた」とあり、全49篇を成した。書は当初あまり評価されなかったが、沈約に判断を仰ごうとしても近づけず、書を背負い商人のふりをして約の車前で待ち、約はこれを取って読み高く評価し常に机上に置いたという。勰は仏理に通じ、都下の寺塔や名僧の碑誌にはよく彼の文が求められた。勅命で慧震沙門とともに定林寺で経典の考証を行い、事業が終わると出家を願い出て鬚髪を剃り自ら誓いを立て、勅許を得て法名を慧地と改めた。