詩品の著者
- 鍾嶸、字は仲偉、潁川長社の人、晋の侍中鍾雅の7世孫。父鍾蹈は斉の中軍参軍。嶸は兄の岏・弟の嶼とともに学を好み思慮深く、斉の永明中(483-493年)国子生として周易に明るく、衛将軍王儉が国子祭酒を兼ねた際に評価された。建武初年(494年)南康王侍郎となった。当時斉明帝は細事にまで自ら親裁し、郡県や六署九府の日常業務まで直接裁可を求め、文武の勲旧も選部を経ずに口利きで登用される事態となっていた。嶸は上書し「古の明君は才を量り政を頒ち能を量って職を授けたもの、三公は坐して道を論じ九卿は成務のみを行い、天子は南面して恭しくしているのがよい」と説いたが帝は不快に思い太中大夫顧暠に「鍾嶸は何者か、朕の機務を絶とうというのか」と語った。暠は「嶸は位卑しく名も低いが、その言には採るべきものがある、繁雑な職事は各々の担当があるはず、今、人主が総轄すればするほど人主は疲れ人臣は逸楽する、これは料理人の仕事を代わりに宰相がするようなもの」と擁護したが帝は聞かず話題を変えた。永元末(501年)司徒行参軍となり、梁の天監初年、制度は改まったものの前弊が残っていたため、嶸は「永元の乱では天爵を弄び、戦功もないのに賄賂で九列の官を得たり片札の紹介で六校の位を得たりする者があり、名実の乱れはこの上ない、素族士人でこの乱に乗じて爵位を得た者は削除して不正を戒めるべき、吏姓寒人はその家柄の範囲でよいが軍功で清貫を濫用させてはならない、僑雑楚人(流民)は撫恤の対象とすべきで、正しい判断で禄力を絶ち妨げを除くべき」と上言し、帝はこれを尚書に付し実行させた。衡陽王元簡が会稽守となり寧朔記室に招かれ文翰を専掌した。居士何𦙍が若邪山に室を構えていた際、洪水で樹木や岩が流されたがこの室だけ残ったため、元簡は嶸に瑞室頌を作らせ、その辞は典麗であった。西中郎晋安王記室に転じた。嶸はかつて沈約に評価を求めたが拒まれ、約の死後、詩評(詩品)を著し古今の詩を優劣づけ「休文(沈約)の諸作の中では五言詩が最も優れているが、永明中は相王(竟陵王)が文を愛し王元長らも宗として付き従い、当時謝朓は未だ知られず江淹は才を使い果たし范雲の名声もまだ低かったため沈約が独歩と称されたにすぎない、実は言葉の緻密さでは范雲に及ばず内容の深みでは江淹に及ばない」と評した。これは旧怨により約を貶めたものと見られている。まもなく官にあって没した。兄の岏、字は長丘、建康令で没し「良吏伝」10巻を著した。弟の嶼は永嘉郡丞。