南史卷七十一 列傳第六十一 顧越

呉地の名教授

  • 顧越、字は允南、呉郡塩官の人。祖父顧道望は斉の散騎侍郎、父顧仲成は梁の護軍司馬・豫章王府諮議参軍。家伝の儒学があり越は幼くして聡明で弁舌に優れ、精励怠らず、20歳前後で都に遊学し碩学を尋ねて質疑を重ね、玄言や九章・七曜・音律・図緯まで精通した。太子詹事周捨は儒学で重んじられていたが、越に一度会うと感嘆し兄の子周弘正・周弘直と交わらせた。当時、会稽の賀文発も経史に通じ越と名声を並べたため、都下では「発越」と称された。南平元襄王偉の国右常侍として文発とともに府に入り重んじられ、行参軍に転じた。大通中(527-529年)、驃勇将軍陳慶之が魏の北海王顥を北に送る際、越は従軍を願い出て許され、慶之は連戦連勝で洛陽に至ったが、顥は驕り高ぶり上下が離心したため越は敗北を予感し病を理由に帰路につき、彭城まで至ったところで慶之は案の定敗れ、越だけが先に無事に帰り着き人々はその見識を称えた。安西湘東王府参軍を経て、武帝が制旨新義を撰した際、儒者を各地に派遣したが越は呉に帰され講説を広めた。越は経芸を博く通じ特に毛詩に明るく異義にも通じ、荘老を得意とし論難に長け文章にも巧みで尺牘を習い、身長7尺3寸で美しい鬚眉を持っていた。武帝が重雲殿で老子を自ら講じた際、僕射徐勉が越を論義に推薦し、越は首を上げて堂々と質問した声は鐘のように響き容止も見事で帝は深く称賛し、中軍宣城王記室参軍に抜擢、まもなく五経博士を除せられ宣城王に侍講した。大同8年(542年)安西武陵王府内中録事参軍に転じ府諮議に累遷した。侯景の乱では越は同志の沈文阿らと東へ避難し、賊党が数度爵位を授けようとしたが越は誓って受けなかった。承聖2年(553年)宣恵晋安王府諮議参軍・領国子博士を詔されたが、世が未だ平らかでないため仕進せず郷里に帰り虎丘山に隠棲し、呉興の沈烱・同郡の張種・会稽の孔奐らと文会を重ねた。紹泰元年(555年)再び国子博士に召され、陳の天嘉中(560-566年)東宮に侍読しのち東中郎鄱陽王府諮議参軍として優遇された。羽林監、給事中・黄門侍郎・国子博士・侍読を兼ね、朝廷草創期の疑問はみな彼の判断によって施行された。東宮に侍講するたびに皇太子は謙虚に接したが、越は宮僚に時流の人材が尽くされておらず太子が仁弱であること、宣帝に奪宗の兆しがあることに憤り、上疏して「私は梁の薄官で耕作にも足りぬ暮らしをしていたが乱世に隠れ、幸いにも聖代に恵まれ厚遇を受けた、二宮の恩遇は並外れており木石も感じ犬馬も情を知る、私一人が報徳を思わずにいられようか。皇太子は天下の本、春宮で善を養う場、私は経籍に侍して5年、見るところ多くの官が空虚で輔弼の任が疑わしいまま極まっていない、文宗学府の廉潔で正しい人物こそ龍楼で常侍すべきで、そうしてこそ聖人の格言や賢人の政道が身につき邪言も入る余地がなくなる。私は年齢を重ね私欲を求めるものではないが、これを言わなければ明聖に背くことになる」と直言し、疏は内に留められ漏らさぬよう求めた。帝は深く感じ入ったが結局改革はできなかった。廃帝の即位で散騎常侍・兼中書舎人・黄門侍郎、天保博士を領し儀礼を掌り帝師として尊崇された。宣帝の輔政期、華皎が挙兵に加わらなかった越に対し、越は休暇を取り東に帰ったところ、越が藩鎮を扇動しようとしていると讒言され免官された。太建元年(569年)77歳で家で没した。喪服・毛詩・老子・孝経・論語などの義疏40余巻、詩頌・碑誌・牋表など200余篇を著した。同時代、東陽の龔孟舒という者も毛詩に通じ名理を語り、梁に仕えて尋陽郡丞となり、元帝が江州にいた頃深く重んじ自ら師事した。天嘉中太中大夫に至った。