易学と玄言の名家
- 全緩、字は弘立、呉郡銭唐の人。幼くして博士褚仲都に易を学び研鑽してその精微を極めた。陳の太建中(569-582年)鎮南始興王府諮議参軍となった。全緩は周易・老荘に通じ、玄を語る者はみな彼を推した。
- 張譏、字は直言、清河武城の人。祖父張僧宝は梁の太子洗馬、父張仲悦は梁の尚書祠部郎。譏は幼くして聡俊で思慮深く、14歳で孝経・論語に通じ玄言を好み、汝南の周弘正に学び、常に新意を出して先輩に推服された。梁の大同中(535-546年)国子正言生に召された。梁武帝が文徳殿で乾坤文言を講じた際、譏は陳郡の袁憲らとともに参列し諸儒が誰も先んじて発言しない中、譏だけが身を整えて進み出て問答し辞令は温雅で帝はこれを異とし裠襦絹などを賜り「そなたの稽古の力を表す」と述べた。譏は幼くして母を喪い母の遺した錦の経帕(経巻を包む布)があり、家人がこれを教えると年時ごとに帕に向かい涙にむせんだという。父の喪でも礼を尽くした。士林館学士となり、簡文帝が士林館に出た際に孝経の題を発したところ、譏の議論は往復を重ね深く評価された。侯景の乱で囲城の中でも独り太子に武徳後殿で老荘を講じ続け、台城陥落後も避難を重ねついに景に仕えなかった。陳の天嘉中(560-566年)国子助教となり、周弘正が国学で周易の題を発した際、弘正の弟弘直も講席にあり、譏が弘正と議論し弘正が屈すると弘直は座を正し声を励まして助けようとしたが、譏は色を正して「今日は義の集会で理を正すもの、兄弟の情で助けることは許されない」と言い、弘直は「私は師のために助けたのだ、なぜいけない」と応じ、座は皆笑った。弘正はかつて人に「私が座って張譏がいるのを見るといつも身が引き締まる」と語った。宣帝の時代、武陵王限内記室・東宮学士を兼ねた。後主が東宮で宮僚を集めた宴で、新調の玉柄麈尾(清談用の払子)を披露し「今、士は林のように多いが、これを取れるのは張譏だけだ」と手ずから授け、温文殿で荘老を講じさせた。宣帝が宮に来てこれを聴き御服を賜った。後主の即位で国子博士・東宮学士となり、鍾山開善寺に行幸した際、松林で従臣に「麈尾がなければ松枝で代えよ」と譏に竪義を命じ「これが張譏の故事だ」と群臣に語った。陳の滅亡後、隋に入り長安で76歳で没した。恬静な性格で栄利を求めず、閑逸を好み宅に山池を営み花果を植え周易・老荘を講じて教授した。呉郡の陸元朗・朱孟博・一乗寺の沙門法才・法雲寺の沙門慧拔・至真観の道士姚綏らがその学を伝えた。譏の著作は周易義30巻、尚書義15巻、毛詩義20巻、孝経義8巻、論語義20巻、老子義11巻、荘子内篇義12巻、外篇義20巻、雑篇義10巻、玄部通義12巻、遊玄桂林24巻に及び、後主が家に赴いてその書を秘閣に写させた。子の張孝則は始安王記室参軍に至った。