南史卷七十一 列傳第六十一 鄭灼

苦学の礼学者

  • 鄭灼、字は茂昭、東陽信安の人。幼くして聡敏で儒学に励んだ。若くして皇侃に師事し、梁の簡文帝が東宮にあって経術を愛し、灼を西省義学士に招いた。承聖中(552-555年)兼中書通事舎人となり、陳の武帝・文帝の時代に累進して中散大夫、のち国子博士を兼ねたが拝命前に没した。灼は精勤な性格で特に三礼に明るく、若い頃、皇侃と道で出会う夢を見た際、侃が「鄭よ、口を開け」と言い、灼の口に唾したところ、それ以来学識が大いに進んだという。灼の家は貧しく義疏を昼夜書き写し筆が擦り切れるたびに削って使い、常に粗食で講義に努め、頭が熱くなると瓜を枕にして横になり、起きるとまた読誦するという篤志を貫いた。当時、晋陵の張崖・呉郡の陸詡・呉興の沈徳威・会稽の賀徳基もまた礼学で名を成した。張崖は同郡の劉文紹に三礼を学び、天嘉元年(560年)尚書儀曹郎となり沈文阿の儀注を広め五礼を撰した後、国子博士となった。陸詡は若くして崔靈恩の三礼義を学び、梁代に百済国が礼博士の派遣を求めた際、詡を行かせるよう詔された。天嘉中、尚書祠部郎に至った。沈徳威、字は懐遠、若くして操行に優れ梁の太清末(549年頃)に天目山に隠棲し学問に励んだ。天嘉元年(560年)都に召され国子助教となり、学舎から私室に戻っても講授を続け道俗数百人が受業した。太常丞・兼五礼学士を経て尚書祠部郎となり、陳の滅亡後は隋に入り秦王府主簿に至って55歳で没した。賀徳基、字は承業、代々礼学を伝える家柄で祖父賀文発、父賀淹はともに梁の祠部郎、当代に名を知られた。徳基は若くして都に遊学し長く帰らず、貧しい衣を恥じ盛冬でも裌襦袴のみで過ごした。白馬寺前で装いの立派な婦人に呼び止められ寺門で白綸巾を贈られ「あなたはやがて重器となる、貧しいのも長くは続かない」と言われ、姓名を尋ねても答えず去ったという逸話が伝わる。徳基は礼記に特に精通し尚書祠部郎に至った。大官には至らなかったが三世が儒学を伝え代々祠部郎となったことを世は美とした。