南史卷七十一 列傳第六十一 戚衮

礼学の名手

  • 戚衮、字は公文、呉郡塩官の人。若くして聡慧で都下に遊学し国子助教劉文紹に三礼を受け、1、2年で大義をほぼ修めた。19歳で梁武帝の勅により孔子正言・周礼・礼記の義を策問され優秀な成績を収め、揚州祭酒従事史を除せられた。国子博士宋懐方に儀礼の義を質した際、懐方は北人で魏から儀礼・礼記の疏を持ち帰り秘蔵していたが、死に際して家人に「私の死後、戚生(衮)が来たら儀礼・礼記義本を渡せ、来なければ屍とともに葬れ」と言い残したという逸話が伝わるほど儒者に推重された。まもなく太学博士を兼ね、簡文帝が東宮にいた頃、衮を招いて講論させ、また玄儒の士を集めた宴で道学の士に互いに質疑させ、次いで中庶子徐摛に大義を論じさせ、劇談で難詰させたところ、諸儒は気圧された中、衮は朝聘の義を説き、摛が反論を重ねても衮は動じず答え続けた。簡文帝はこれを深く称賛した。敬帝の即位で江州長史となり沈泰に従って南豫州に鎮したが、泰が斉に亡命する際に強制されて随行し、後に斉から逃げ戻った。さらに程文季に従って呂梁で戦い、敗れて周に入り、後年帰国して始興王府録事参軍として没した。梁代に三礼義記を撰したが乱で失われ、礼記義40巻が世に伝わった。