南史卷七十一 列傳第六十一 卞華

北来の礼学者たち

  • 卞華、字は昭岳、済陰宛句の人、晋の驃騎将軍卞壺の6世孫。父卞倫之は斉の給事中。華は幼くして孤貧ながら学を好み、14歳で国子生に召され周易に通じ、成長すると五経を修め平原の明山賓・会稽の賀瑒と学問の交わりを結んだ。梁の天監中、安成王功曹参軍・兼五経博士となり教授で徒を集めた。博学で機知に富み経を解釈する議論は当代随一と称され、江左以来絶えていた鍾律の学は卞華によって通じるようになった。尚書儀曹郎・呉令に至った。
  • 崔靈恩、清河東武城の人。若くして篤学、五経を修め特に三礼・三伝に精通した。魏に仕えて太常博士となったが天監13年(514年)梁に帰順し、歩兵校尉・兼国子博士に転じた。教授には常に数百人が聴講した。性格は不器用で風采に乏しかったが経理の解釈は精緻で都下の旧儒からも重んじられた。助教の孔僉は特にその学を好んだ。靈恩は初め左伝の服虔注を学んだが江東で行われなかったため杜預の義に改説し、文句ごとに服虔説を難じて杜義を主張し「左氏条義」を著した。当時の助教虞僧誕は杜学に精通し「申杜難服」を著して答え、両説は並び伝わった。虞僧誕は会稽余姚の人、左伝を教授し聴衆も数百人に及び義例に通じ当代随一であった。天文論では従来渾天説と蓋天説が対立していたが、靈恩は渾蓋を一つに統合する説を立てた。長沙内史として出向いた後、国子博士に復し講義はさらに盛況を極め、桂州刺史として没した。集注毛詩22巻、集注周礼40巻、三礼義宗30巻、左氏経伝義22巻、左氏条例10巻、公羊穀梁文句義10巻を著した。
  • 孔僉、会稽山陰の人。若くして何𦙍に師事し五経、特に三礼・孝経・論語に通じ講説は数十篇に及び生徒も数百人であった。三度五経博士となり、のち海塩・山陰二県令となったが、儒者は政治の才には長けないため治績は上げず、太清の乱で自宅で没した。子の孔淑玄も文学に通じ太学博士に至った。僉の兄の子孔元素も三礼に通じ盛名があったが早逝した。
  • 盧廣、范陽涿の人、晋の司空従事中郎盧諶の後裔と自称した。若くして経に明るく儒術を修め、天監中に梁に帰順し歩兵校尉・兼国子博士となり五経を講じた。当時、北来の儒学者には崔靈恩・孫詳・蒋顕がいたが、その多くは音辞が拙く聴きづらかった。盧廣だけは言論が清雅で北人らしくなく、僕射徐勉が経術に通じていたため深く評価し合った。のち尋陽太守・武陵王長史として官にあって没した。