南史卷七十一 列傳第六十一 沈峻

三礼学の継承

  • 沈峻、字は士嵩、呉興武康の人、農家の出身。峻は好学で舅の太史叔明とともに宗人沈麟士に長年師事し、昼夜怠らず眠くなれば自ら杖で打って戒めた。かくして五経、特に三礼に博通し兼国子助教となった。吏部郎陸倕が僕射徐勉に宛てた推薦の書に「聖賢の講書は必ず周官に基づくべきで、周官はこそ諸経の源だが、その学は長く伝わらず、北人の孫詳・蒋顕も講じてはいるが音辞が北方風で学徒が集まらない。ただ助教の沈峻はこの書に特に精通し、日夜講説を開き諸儒の劉嵒・沈宏・沈熊らが経を執って教えを受けている、心服しない者はいない。この人を用いて代々この学を専らにさせれば聖人の正典が廃れず再興するだろう」と述べ、徐勉はこれに従い峻を兼五経博士とした。館での講義には常に数百人が集まった。中書舎人賀琛が勅命で梁官を撰する際、峻と孔子祛を西省学士に招き編纂を助けさせ、書が成ると兼中書通事舎人となり、武康令として出向き官にあって没した。峻の学を伝えた者には呉郡の張及、会稽の孔子雲がおり、いずれも五経博士・尚書祠部郎に至った。
  • 太史叔明、呉興烏程の人、呉の太史慈の後裔。若くして荘老を好み孝経・論語・礼記にも通じ三玄(老荘易)に特に精通し、講説を聴く者は常に500人を超えた。国子助教となり、邵陵王綸がその学を好み、江州に出向く際に叔明を伴い、王が郢州に遷ると随い各地で講じたため、江州の人士はその学を伝えた。
  • 峻の子沈文阿、字は国衛、剛強な性格で武勇があり、若くして父の学を継ぎ章句を研鑽、祖父の従兄太史叔明・舅の王慧興に経術を学び、さらに諸儒の異同を博く採って自ら義疏を作り三礼・三伝に通じた。五経博士となり、梁の簡文帝が東宮学士として招き、長春義記の撰述にあたって文阿が異聞を集める役を多く務めた。侯景の乱の際、簡文帝は文阿に台城救援の兵を募らせたが台城は陥落し、張嵊とともに呉興を守ったが敗れ、文阿は山野に逃げた。景は彼の名声を聞いて急いで探させ、文阿は追い詰められ木に登り首を吊ろうとしたが親族に救われ、木から落ちて左腕を折った。景の乱が平定されると陳武帝は文阿を郷里の名望により原郷令とし江陰郡を監させた。紹泰元年(555年)国子博士に入り、まもなく歩兵校尉を兼ね儀礼を掌った。太清の乱以来、台閣の故事はほとんど残っていなかったが、文阿の父峻が梁武帝時代に朝儀を掌り遺稿があったため、これを参考に礼制を編纂した。陳武帝の受禅の際、文阿は官を捨てて武康に帰ってしまい、帝は激怒して使者を送り誅殺しようとしたが、文阿の一族沈恪が郡のために使者に赦免を求め、文阿は自ら縄を首にかけ皇帝の前に出頭すると、帝は見て笑い「腐れ儒者め、何をしているのか」と言い赦した。武帝の崩御に際し、文阿は尚書左丞徐陵・中書舎人劉師知らと大行皇帝の霊座の侍衛や衣服の制について議論した(詳細は師知伝に記す)。文帝の即位で謁廟の日取りを決める際、尚書左丞庾持が博士に礼を諮問すると、文阿は「人物や制度は時代とともに変わり、聖賢は機に応じて教えを立てる。かつて周公・召公が幼い成王を輔けた際、喪中に国が傾く恐れがあったため既葬後に公冠の儀を行い、殯の際に麻冕の策を受ける先例を作り、天下に主のあることを示し社稷の艱難を慮った。漢代以降はこの弊を承け、文帝・景帝の時代でも七国の乱で即位や崩御の詔が略式で行われた例があるが、これも已むを得ぬ事情によるもので礼を無視したわけではない。今国諱(帝の死)に際し璽紱の重責のため哀しみを抑えているが、まだ君臣の儀は整っていない。古礼では朝廟を終えて正寝に退き群臣の政務を聴くとある。今、皇帝が廟を拝して還る際は太極前殿に御して南面の尊を正すべきで、これは周の康王が朝で一二の臣衛を置いた例と同じである。壌奠(贈答の礼)については周礼で玉を贄とし公侯は珪、子男は璧を用い、贄を奉った後さらに致享する際は天子は璧、王后は琮を用いるが、秦の焚書で古の威儀が散逸し、叔孫通の定めた礼は前代の規範を失い贄に珪を用いず致享に帛を用いず公と王が同じ璧を用いるなど鴻臚の奏賀もこれまで聞かれなかった数事があり、梁代以降に踏襲されている。祝盃を挙げて長寿を祝うのは国家の大慶事、四方の雅楽で歓喜を奏でるものだが、今、君臣がともに哀しみを抱き民も謹んでいる時にこれと同じにできようか。周の康王の賓の礼では珪を奉るのみで万寿の献はなかった、これが前例として明らかである。よって今は正殿に座し薦璧の儀のみ行い賀酒の礼は行わないのがよい、謹んで謁廟から正寝に還り群臣が陪薦する儀注を別に撰する」と論じ、詔でこれを施行させた。まもなく通直散騎常侍・兼国子博士・領羽林監に転じ、東宮で孝経・論語を講じさせた。天嘉中(560-566年)没し廷尉卿を追贈された。儀礼80余条、春秋・礼記・孝経・論語義記70余巻、経典大義18巻を撰し、当代の儒者はその学を伝えた。