南史卷七十一 列傳第六十一 司馬筠

慈母の服制論議

  • 司馬筠、字は貞素、河内温の人、晋の譙王承の七代孫。祖父司馬亮は宋の司空従事中郎、父司馬端、字は敬文、斉の奉朝請、始安王遥光の記室として文書を掌った。遥光の敗北の際、曹武が入城して端に会うと、端は「私は始安の厚恩を受けた身、あなたが私を殺すべきだ」と言い、曹武は速やかに立ち去るよう命じたが端は「死生は命だ、あなたが事を見誤り私を義軍を賊とすれば誅すことになろう」と答えたため武は捨て置いて去ったが、まもなく兵が来て端を殺した。筠は幼くして孤児となり貧しくも学を好み、沛国の劉瓛に師事し力を尽くして学び瓛に重んじられ、成長すると経術に博通し特に三礼に明るかった。梁の天監初年、既陽令として清績を挙げ、尚書祠部郎に召された。天監7年(508年)安成国太妃陳氏が薨じた際、江州刺史安成王秀・荊州刺史始興王憺はいずれも慈母の喪として離職を求めたが許されず、太妃の喪祭を主宰する者が都にいない状態となった。中書舎人周捨は「賀彦先(賀循)は慈母の子は慈母の一族には服さないと言い、婦人も夫に従わず慈姑には小功服を着ないとした。庾蔚之も子だけでなく孫も父に従って慈祖母には服さないとしている。よって慈祖母には服なしと明らかである。しかし門内の哀しみは通常と同一視できず、父の祥禫(喪明けの儀礼)には子が受弔するという先例があるので、今回二王の諸子は成服の日に単衣で一日だけ受弔の位に就くのがよい」と議した。制(皇帝の裁定)は「二王は遠方にあり世子が祭祀を代行すべき」とした。周捨はさらに「礼に縞冠玄武の子姓の冠とあるように世子の服は通常と異なるべきで、細布の衣・絹の帯を三年間身につけ音楽を聴かないのがよい。また礼と春秋によれば庶母は代々祭られないが、これは王命を受けない者についての話。呉太妃は朝命を受けた身なので安成の礼秩により祔廟し五世で親が尽きて廟を毀つのが道理、慈孫は服を継がないので廟での祭祀は伝わらない」と述べた。武帝はこれを機に礼官に皇子の慈母の服制を議論させ、筠は「宋朝の五服制では皇子は訓養母への服を庶母慈已の小功の制に従うべき」と述べ、曾子問の「子游が慈母の喪について問うと孔子は『礼ではない、昔は男子には外に傅、内に慈母がおり君命で子を教えさせたのみで服はない』と答えた」を引き、鄭玄注も国君の子について言うとし、王者の子にも服がないことになる、また喪服経の「君子子は庶母慈己のために」の注も卿大夫に限るとし、慈母の服は上は五等の嗣子には及ばず下は士の子にも及ばない、卿大夫だけに限られるものなら諸侯の子にも服はないはずで、まして皇子に及ぶはずがない、礼に基づき削除すべきと論じた。しかし武帝はこれに反対し「慈母には三種ある。一つは妾の子に母がなく、子のない妾に養わせ母として三年の喪服(斉衰章)を着る場合。二つは嫡妻の子に母がなく、妾に養わせる場合で、慈しみの情は深くとも妾は母たる名分を持たないため小功で服す(喪服小功章で『慈母』と言わず『庶母慈己』と言うのはこの三年慈母と区別するため)。三つ目は母がいるのに賤しい者に養わせる場合で、これは師保に類し服はない、内則にある『諸母から師母・慈母・保母を選ぶ』というのはこの三母のこと、兄弟の母から選ぶわけではない、もし兄弟の母から選ぶなら先に子を生んだ妾を格下げして保母にするのは不都合、由って子游の問いはこの師保の慈のことで三年・小功の慈母のことではない」と論じ、鄭玄の注釈がこの三種を混同していると批判した。結局、筠らは「嫡妻の子で母を失い父の妾に養われた者は五月の服とする」との永制を請い、それが定められた。筠は尚書左丞に転じ始興内史で没した。子の司馬夀は父の業を継ぎ三礼に通じ尚書祠部郎・曲阿令となった。