南史卷七十一 列傳第六十一 嚴植之

清貧の名教授

  • 厳植之、字は孝源、建平秭帰の人。若くして荘老を好み玄言に長じ、喪服・孝経・論語に精通し、成長すると鄭氏礼・周易・毛詩・左氏春秋にも通じた。生来の孝行者で、自らの学識を誇らなかった。若くして父の喪に遭い、菜食を23年間続けた。斉に仕えて広漢王国右常侍となり王の読書に侍したが、王が誅殺されると国人が誰も見舞わない中、植之だけが駆けつけて哭泣し自ら葬儀を営み、跣足で墓所まで送った。当時の人々はこれを義とした。のち康楽令となり県では清白な統治で人吏に称えられた。梁の天監2年(503年)詔で通儒を求め五礼を修めさせた際、有司は植之を凶礼担当に推薦した。天監4年(505年)五経博士が設置されると兼五経博士となり、潮溝に館を構え常に百人以上の生徒が集まり、講説は区切りが明確で理路整然としており、講義のたびに五館の生徒が集まり聴衆は千余人に及んだ。中撫記室参軍に転じても博士職を兼ね、館で没した。病を得てからは俸禄を受けず妻子は困窮し、没後は喪の費用もなく生徒が家を売り資金を集めて葬儀を営んだ。慈悲深く陰徳を好み、暗がりでも怠らなかった。若い頃山中で病人を見つけたが名も答えられず、担いで帰り医薬を与えたが6日で死に棺を用意して葬った、素性は最後まで分からなかった。また塘沿いを歩いていて病人を見つけ、荊州出身で人に雇われていたが病が重く船主に置き去りにされたと聞くと、担いで帰り一年かけて治療し治した。その男は終生奴僕として恩に報いたいと申し出たが植之は受けず、代わりに食糧を与えて送り出した。凶礼儀注四百七十九巻を撰した。