清廉と、孫彬の逸話
- 甄法崇、中山の人。父匡は少府卿を務め清廉で知られた。法崇は宋の永初年間(420-422年)江陵令となり厳格に治め県内は粛然とした。当時南平の繆士通は江安令となり任地で没していたが、その年の暮れ、法崇の役所に士通が現れた。士通が既に死んでいると知り呆然としたが、士通は座って「あなたの県の宋雅が千余石の米を私の子に返さず子が困窮している、それで訴えに来た」と言い、法崇は口述を書き取らせ辞状とすると士通は謝辞を述べ立ち去った。法崇が繆家の窮状を確かめさせ返済を命じたところ、太守王華がこれを聞き感嘆した。
- 法崇の孫彬は品行に優れ郷里で称賛された。あるとき麻苧の束を州の長沙寺の質屋に入れて借金し、後に贖い戻したところ、束の中に金五両が布にくるまれて入っているのを見つけ、そのまま寺の質屋に送り返した。道人は驚き「先にこの金を質に入れた者がいたが事情があって出せぬまま檀越(施主)を失った、それを返してくれるとは」と言い、金の半分を報酬として何度も勧めたが彬は固辞し、「五月に羊裘を着て薪を背負うような貧しい者が、拾った金を懐に入れるはずがあろうか」と述べて金を返した。梁武帝はまだ布衣であった頃これを聞き知り、即位後、西昌侯蕭藻を益州刺史とした際、彬を府録事参軍・郫県令に任じた。赴任する同僚5人に武帝が廉慎であるよう戒めたが、彬だけは「あなたは既に金を返した美談をお持ちだから、この言葉は要りませんね」と言われた。これにより名声はいよいよ高まり、蜀にあっても蕭藻は彼を厚く礼遇した。