南史卷六十四 列傳第五十四 徐文盛

徐文盛

  • 徐文盛は字を道茂といい、彭城の人。家は元来魏の将で、父の徐慶之は梁天監初め北から南帰する途上で没した。文盛はその軍衆を統率し、功績を重ねた。大同末、寧州刺史。州は僻遠で蛮族の劫掠が絶えず歴代の刺史も制御できなかったが、文盛は誠意をもって撫慰し夷人の風俗を改めさせた。太清二年、国難を聞き数万を募って赴き、元帝は秦州刺史・都督とし東討の任を授けた。
  • 武昌まで進み侯景の将任約と対峙、元帝は護軍将軍尹悅・平東将軍杜幼安・巴州刺史王珣らを合流させ皆文盛の指揮下に入れ、貝磯で任約を大破し、約は西陽に退いた。文盛は蘆洲に進み再び対峙、侯景は約救援のため西進した。諸将は「景の水軍は疲弊しており今撃てば必ず勝てる」と進言したが文盛は許さなかった。実は文盛の妻・石氏がかつて建鄴にあり、景がこれを返してよこしたため文盛は景に恩義を感じ密かに使者を通じるようになり、士気は失われ衆は憤怨した。杜幼安・宋簉らが独自に進み景軍を大破し舟艦を得て帰ったが、折しも景が間道で密かに郢州を陥落させたため軍中は動揺し大潰、文盛は荆州へ逃げ戻った。
  • 元帝は文盛を城北面大都督としたが、収賄が甚だしく元帝は激怒しその罪十を数え官爵を剥奪した。文盛は密かに恨みを抱き、それを聞いた帝はさらに投獄した。折しも捕えられていた任約と同じ牢に入れられ、文盛が「なぜ早く降らなかったのか、私をこの目に遭わせて」と言うと、任約は「門の外で貴殿の馬跡を見なかった、私にどうして降伏の機会があったのか」と答え、文盛は返す言葉なく獄中で没した。