南史卷六十四 列傳第五十四 胡僧祐

胡僧祐は字を願果といい、南陽冠軍の人。若くして武才があり、初め東魏に仕えたのち大通三年に梁へ帰順、以後は梁元帝に仕えた将軍。侯景の乱では王僧辯救援や任約撃退で功を挙げ、車騎将軍・開府儀同三司にまで進んだが、魏軍の江陵侵攻に際し都督城東諸軍事として戦死した。

年表(4件)
  • 大通三年尒朱氏の乱を避け魏から梁に帰順する
  • 中大通元年陳慶之に従い梁に戻り、南天水・天門二郡太守となる
  • 大寳二年元帝の命で王僧辯救援に赴き、侯景の将任約を大破して捕らえる
  • 承聖二年車騎将軍・開府儀同三司となる

胡僧祐

  • 胡僧祐は字を願果といい、南陽冠軍の人。若くして勇決果断で武才があり、魏に仕え銀青光禄大夫の位にあったが、大通三年、尒朱氏の難を避けて梁に帰順、しばしば封事を上げた。武帝は器量を認め文徳主帥に任じたが、項城の守備中に魏に城を落とされ北に入った。中大通元年、陳慶之が魏の北海王元顥を洛陽に送った際、僧祐は再び梁に帰り、南天水・天門二郡太守として善政を行った。読書を好み文章を綴ったが文辞は野卑で嘲られることが多く、それでも自らを実力者と自負した。
  • 晩年は梁元帝に仕えた。侯景の乱の際、西沮の蛮が反乱すると元帝は僧祐に討伐を命じ渠帥を皆殺しにさせようとしたが、僧祐は諫めて帝の意に逆らい投獄された。大寳二年、侯景が王僧辯を巴陵に包囲すると、元帝は僧祐を獄から引き出し假節武猛将軍・新市縣侯として救援に向かわせた。出発の際、子の胡玘に「開門は朱・白二門を使い分け、勝てば朱、負ければ白から知らせよ」と泣きながら言い残したという。元帝はこれを壮とした。赤沙亭に至り、陸法和と合流して大破、侯景の将任約を捕え江陵に送り、侯景は退却した。のち領軍将軍となり、加えられた鼓吹を斎中に置いて自ら楽しみ、「羽儀の器で高位にある者がこのようにすべきではない」と人に諭されても「性分として愛でるのみ」と答え、外出にも携えたため人々に笑われた。承聖二年、車騎将軍開府儀同三司。魏軍が至った際は都督城東諸軍事となったが、まもなく流れ矢に当たって戦死し、城は陥落した。