南史卷六十四 列傳第五十四 陰子春

陰子春(子・陰鏗)

  • 陰子春は字を幼文といい、武威姑臧の人。晋の義熙末、曾祖の陰襲が宋武帝の南遷に従い南平に至り家を為した。父の陰智伯は梁武帝と隣人で親しく、帝の寝所に異光が五色に成るのを見て「公は後に必ず大貴、人臣に非ず、天下が乱れる時民を安んずるのは公であろう」と述べたという。武帝が即位すると外府のごとく厚遇し、梁秦二州刺史に至った。
  • 子春は朐山戍主・東莞太守を歴任。青州石鹿山の神廟が刺史王神念により毀された際、大蛇が現れ捕えられず海に入った故事があり、その夜子春の夢に「宅舎を壊され身を寄せる所がない、君の厚徳を慕いこの地に憩いたい」との者が現れた。子春が密かに記憶していると二日後にそれと知って驚き、供物を用意し安置したところ、後日また朱衣の人が「厚恵を得て一州をもって報いよう」と告げる夢を見た。喜んで供養を重ねると、間もなく魏が朐山を襲おうとした際、間諜の情報を事前に得て伏兵で撃破し、南青州刺史・鎮朐山、のち都督梁秦二州刺史に進んだ。子春は特に才略はなかったが清廉で知られ、一方で家庭内は乱雑、足を数年に一度しか洗わず、洗うたびに財を失い事が壊れると言い伝えられ、梁州で足を洗った時に梁州が陥落したとまで言われた。
  • 太清二年、左衛将軍に召され侍中に進んだ。侯景の乱に際し元帝の命で王僧辯に従い邵陵王を討ち平らげ、また左衛将軍徐文盛と東討に赴き、貝磯で侯景と交戦、常に諸軍の先頭で力戦したが、郢州陥落を受けて退き江陵で没した。

陰鏗

  • 陰鏗は字を子堅といい、史伝に広く通じ、とくに五言詩に長じ当時重んじられた。梁の湘東王法曹行參軍。ある宴席で酒を注ぐ者を見て酒肴を回して渡すと座は皆笑ったが、鏗は「我らは一日中酒を酌み交わしながら、酌む者の味を知らないのは人情に悖る」と述べた。侯景の乱で捕えられかけたが救われ、その救った者がかつて自分が酒を注いだ相手であったという。
  • 陳の天嘉年間、始興王中錄事參軍。文帝が群臣を宴し詩を賦させた際、徐陵の推挙により即日召され、新成の安楽宮を賦させると即座に成し、帝は大いに褒めた。晋陵太守・員外散騎常侍を歴任し、まもなく没した。文集三巻が世に行われた。

杜崱

  • 杜崱は京兆杜陵の人。その先祖は北から南に帰り雍州襄陽に居し子孫はここに家を為した。父の杜懐珤は志節あり、梁天監中しばしば軍功を立て、南鄭でも功を立て梁秦二州刺史となった。大同初め、魏軍が再び南鄭を包囲した際、懐珤は第三子の杜嶷に二百騎を率いさせ光道寺溪で魏の前鋒と戦わせたが、矢が目に当たり落馬、敵が矟を交えて迫ると嶷は一騎を斬って馬を奪い帰った。嶷は膂力人に絶し馬術弓術に優れ、常用の弓は霜明朱弓四石余力、矟は斑絲纒二丈五尺で、決死の士百七十人を従え出撃のたびに数百の敵を殺傷、敵は畏れて「杜彪」と呼んだ。懐珤は州に没し諡は桓侯。嶷は西荆州刺史となった。当時「独梁之下有瞎天子」との讖言があり元帝は嶷をその人物と疑い、嶷が父祖の墓を改葬する際に帝は墓相の者に良くない相を報告させたため、それから一年余りで嶷は没した。
  • 杜崱は嶷の弟。若くして志気があり、郷里で膽勇をもって知られ、新興太守となった。太清三年、岳陽王蕭詧に従い荆州を襲った際、元帝と崱の兄・杜岸との旧誼から密書で招かれ、崱は岸の弟・幼安、岸の兄の子・杜龕らとともに夜半に元帝方へ帰参した。元帝は武州刺史・枝江縣侯とし、王僧辯に従い東討させた。巴陵で侯景が逃げると侍中に進み公に爵を上げ、僧辯に従い石頭まで追撃、景平定後は散騎常侍・江州刺史。同月、斉の郭元建が秦州刺史嚴超達を秦郡で攻めると、王僧辯の命で救援に赴き、陳武帝も歐陽から合流、元建の軍が退く隙に兵を放って大破した。
  • 元帝が江陵で王琳を捕えると、琳の長史陸納らが長沙で反乱、崱は王僧辯と共に討伐に赴き、車輪の地で大敗させた。納らが降った後、崱はさらに王僧辯と共に武陵王を硖石で討ち平らげ、鎮に戻る途中で病を得て没した。諡は武。崱の兄弟は九人、嵩・岑・嶷・岌・巚・岸、そして弟の嵸・幼安がみな知られた。

杜岸

  • 杜岸は字を公衡といい、太清中、崱とともに岳陽王蕭詧に従い荆州を攻めたが同じく元帝に帰し、北梁州刺史・江陵縣侯となった。五百騎で襄陽を襲おうとしたが城の三十里手前で気づかれ、蕭詧が夜に襄陽を掩襲すると岸らは奔って兄の南陽太守杜巚のもとに逃れた。蕭詧の将尹正・薛暉らがこれを攻め落とし、巚・岸とその母妻子女を捕えて襄陽北門で斬った。蕭詧の母・龔保林が衆前で岸を責めると、岸は「老いた婢の分際で自分の子に叔父を殺させておきながら、忠良を枉殺するとは」と言い返した。詧は岸の舌を抜き切り刻んで煮殺し、杜氏一族の宗族を皆殺しにし、幼弱な者は蚕室に入れ、墓を暴いて骸骨を焼き灰を撒き、漆で頭骨の器を作った。建鄴平定後、崱兄弟は蕭詧一族の安寧陵を暴いて焼き、漆器の酷を報いた。元帝もこれを咎めなかった。

杜幼安

  • 杜幼安は至孝寛厚で人並外れた勇があり、兄の崱とともに元帝に帰し、西荆州刺史・華容縣侯とされた。王僧辯と共に河東王蕭譽を長沙で討ち平らげ、また徐文盛の東討を助け、貝磯で侯景の将任約を大破し、儀同叱羅子通・湘州刺史趙威方らを斬った。さらに漢口で大挙し武昌を攻略、侯景が蘆洲に進んで文盛を圧迫した際も幼安ら諸軍が大破したが、折しも景が密かに騎兵で郢州を陥落させ刺史方諸らが捕えられ人心が動揺、文盛は漢口から逃走し諸軍は大潰した。幼安は景に降ったが、景はその変節を疑い殺した。

杜龕

  • 杜龕は杜岑の子。若くして驍勇善戦、諸父とともに元帝に帰し鄖州刺史・中盧縣侯とされた。王僧辯と共に河東王蕭譽を討平し、さらに徐文盛軍に随行し巴陵で侯景の郢州陥落を聞いて戻り、僧辯らと巴陵を守った。景が包囲するも数旬落とせず退いた。太府卿・定州刺史に転じ、姑孰まで進んだ諸軍が侯景の将侯子鑑と交戦した際、陳武帝・王琳らと共に子鑑を大破、石頭では侯景自ら出陣したがこれも大破し功第一と評され東揚州刺史。さらに王僧辯とともに陸納を降し武陵王を討ち平らげた。西魏が江陵を平定した後、斉が貞陽侯蕭明を梁の後嗣として立てると、龕は震州刺史・呉興太守、南豫州刺史・溧陽縣侯、散騎常侍・鎮南大将軍を加えられた。
  • 龕は王僧辯の婿。かつて呉興太守として、陳武帝が元来卑賤の出であることを理由に、その本郡で法を厳しく適用し容赦しなかったため、武帝は深く恨んだ。僧辯が敗死すると龕は呉興に拠って陳に抵抗し、陳文帝の軍をしばしば破った。しかし酒好きで終日酔い、勇はあれど計略はなく、部将の杜泰が密かに文帝と通じ龕に降伏を説くと龕もこれに応じかけたが、妻の王氏が「陳武帝との讐怨がこれほど深いのに和睦などありえようか」と諫め、私財を投じて再び兵を募り文帝軍を大破した。のち杜泰が文帝に降り、龕は酔って気づかぬまま文帝の兵に担ぎ出され項王寺前で斬られた。王氏はこれにより髪を切り出家し、杜氏一門は滅んだ。