南史卷六十 列傳第五十 殷鈞

生涯

  • 殷鈞、字は季和、陳郡長平の人。晋荆州刺史仲堪の五世孫。曽祖元素は宋南康相で元凶の事に連座して誅殺された。元素は尚書僕射琅邪王僧朗の娘を娶り子寧をもうけたが早卒、寧の遺腹子叡も誅殺されるところ王僧朗が孝武帝に願い救われた。叡は口辯に優れ、司徒褚彦回に「殷氏で荊州以来卿に及ぶ者なし」と称賛されても「殷族は衰えており、その言葉が虚であれば足らず、実であれば尚更聞くに堪えぬ」と謙抑に応じた。斉に仕え司徒従事中郎、妻は琅邪王奐の娘で、奐が雍州刺史となり叡を府長史に招くが、奐の誅殺に連座し叡も殺害された。
  • 鈞は九歳で孝を称され、成長後は恬静で交遊を好まず学問を好み、思考力があり隷書を得意として当時の楷法とされ、范雲・任昉に美を称された。梁武帝は叡の旧知として娘の永興公主を鈞に嫁がせ駙馬都尉に任じた。秘書丞として秘閣四部書の校定・目録作成にあたり、西省の法書古跡の整理も詔で命じられた。侍中・東宮学士。永興公主は驕慢険虐で、鈞の醜い容貌を憎み、召見のたびに壁に「殷叡」の字を書かせて涙を流させ、婢に縛らせるなど辱めた。鈞が怒って武帝に訴えると武帝は犀如意で公主の背を砕くほど打ったが、なお鈞は侍中の職を離れ王府諮議に出された。
  • 明威将軍・臨川内史として病弱ながら善政を布き、捕らえた劫盗の頭目を拷問せず和言で諭し改心させ、その後善人となったという。郡の風土病である瘧疾も鈞在任中は絶えたと伝わる。母の喪に礼を尽くし、昭明太子が案じて手書きで諭した。服喪後、散騎常侍・歩兵校尉、東宮中庶子を経て国子祭酒で卒し諡は貞。二子は構・渥。宗人に芸がある。
  • 芸(字は灌蔬)は倜儻で細行に拘らず、妄りに交遊せず学に勤め群書に博通し、何憲に見出され称賛された。天監中、秘書監・司徒左長史を経て東宮学士に直し、省で卒した。

史論

  • 范岫の徳美、傅昭の清令、孔休源の政事、江革の彊直は、いずれも学問を修め文采を飾ったことで、時の君主に高く用いられたのであり、決して偶然ではない。徐勉は若くして志を励まし発憤して食を忘れ、身を修め行いを慎み、興隆の機に遭って公輔の位に至り、権を執りながら異論なきまま職を全うし、梁の宗臣となった、実に美事というべきである。許懋は経学の才で「経史笥」と称され、子の亨も道を懐き古を好み博覧の誉れを得た。封禅を諫止し王僧辯の埋葬を求めた正直さは、文義のみに留まらぬ「仁者は勇あり」との言葉そのものである。殷鈞は徳業自ら備わり、さらに政績を加えており、文質彬彬たる人物として称するに足る。