生涯
- 許懋、字は昭哲、髙陽新城の人。魏鎮北将軍允の九世孫。五世祖詢は晋徴士、祖珪は宋給事著作郎・桂陽太守、父勇慧は斉太子家令・冗従僕射。懋は幼くして孤児となり至孝で州党に称された。十四歳で太学に入り毛詩を学び、後年は自ら講義して数十百人が聴講、『風雅比興義』十五巻を撰し、故事に明るく「儀注学」と称された。豫章王行参軍・法曹、秀才に挙げられ驃騎大将軍儀同中記室。文恵太子に召され崇明殿で侍講、国子博士を兼ね、司馬褧と親交、江祏に「経史笥」と称された。
- 梁天監初、吏部尚書范雲の推薦で五礼撰定に参画、征西鄱陽王諮議参軍・著作郎・待詔文徳省。会稽での封禅を求める議が起こり儒学士を集めて封禅の儀を進めようとした際、懋独り不可と建議、武帝はこれを納れ議は停止された。十年(511年)太子家令として礼儀の多くを刊正、足疾により始平太守に出て政有能で名を挙げ散騎常侍を加官、天門太守。中大通三年(531年)皇太子とともに『長春義記』を録し、四年中庶子拝命の年に卒した。『述行記』四巻、文集十五巻。子は亨。
- 亨(字は亨道)は家業を継ぎ孤高で節行あり、群書に通じ前代の旧事に詳しく、南陽の劉之遴に重んじられた。梁太清初、西中郎記室兼太常丞。侯景の乱で郢州に避難、邵陵王に諮議参軍として招かれ、王僧辯の郢州襲撃時には儀同従事中郎に招かれ太尉従事中郎に転じ、呉興の沈炯とともに書記を管掌し府政朝務を委ねられた。晋安王承制下で給事黄門侍郎、陳武帝受禅後は太中大夫兼領大著作として梁史編纂に従事した。王僧辯誅殺の際、方山に埋められた遺骸を義によって改葬しようとする者がないなか、亨は徐陵・張種・孔奐らと家財を出し合い七柩を改葬した。
- 光大中、宣帝(陳頊)入輔の折、亨を貞正の士として師礼で遇し、到仲挙の謀に際しては奉詔しないよう勧めて的中させた。宣帝即位後、衛尉卿を拝命し官にて卒した。『斉書并志』五十巻を撰したが乱で亡失し、後に『梁史』五十八巻を完成、太清以後の文筆六巻を残した。子善心は尚書度支侍郎。