南史卷六十 列傳第五十 徐勉

徐勉、字は脩仁、東海郯の人。幼くして孤貧の中から身を立て、梁武帝に重用されて吏部尚書・尚書僕射等を歴任した政治家。選任制度の整備(九品を十八班に改める制)や五礼の撰定など制度整備に尽力し、清廉で蓄財せず子孫に「清白を遺す」ことを説いた誡子書でも知られる。

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生涯

  • 徐勉、字は脩仁、東海郯の人。祖父長宗は宋武帝霸府行参軍、父融は南昌相。勉は幼くして孤貧、清節を励んだ。六歳で霖雨の折に文を作って耆宿に称賛され、宗人徐孝嗣が「千里の駿馬」と評して諸子に「この人に則って行え」と語った。十八歳で国子生となり専心して学び、祭酒王儉は常に「非常の器、宰輔の量あり」と評した。射策甲科で王国侍郎、太学博士。臨海王西中郎田曹行参軍、都曹に転じ、琅邪王融の交誼を求める申し出には「王郎は名声高く危うい」と距離を置き、後に融が法に陥ったことでその見識が評価された。
  • 領軍長史のとき長沙宣武王と交遊し梁武帝に重んじられ、武帝の建鄴入城時に新林で謁見して以来書記を任された。即位後、中書侍郎・中書通事舎人、臨川王後軍諮議・尚書左丞として糾挙に努め、天監三年(504年)給事黄門侍郎・尚書吏部郎参掌大選、侍中。魏侵攻の際は軍書を管掌して数旬帰宅せず、犬が主を忘れて吠えたことから「憂国忘家」と嘆じた。六年給事中・五兵尚書、吏部尚書として選任の秩序化に努め、選簿を撰して九品を十八班に改める制を定めた。
  • 左衛将軍・太子中庶子として昭明太子に重んじられ、殿での孝経講義で執経を務めた(沈約・張充らと並ぶ人選)。揚徐の迎主簿の人選で子の崧が南徐選首に選ばれた際、武帝の「寒士なのに」との戯言に不快を示して恭しく答えなかったため散騎常侍・游撃将軍に左遷された。太子詹事、尚書右僕射。喪礼の速葬の風潮を上疏で正し、三日大歛の礼を求めて詔可された。尚書僕射・中衛将軍として禁省の秘密を漏らさず、上奏の草稿は常に焼却した。
  • 五礼撰定の詔を受け、普通六年(525年)完成を上表(要旨:礼は上を安んじ人を化す根本であり、周室以来の礼制沿革を述べ、嘉礼十二帙百十六巻五百三十六条・賓礼十七帙百三十三巻五百四十五条・軍礼十八帙百八十九巻二百四十条・吉礼二十六帙二百二十四巻千五条・凶礼四十七帙五百十四巻五千六百九十三条、総計百二十帙千百七十六巻八千十九条に及ぶ)。中書令を加官されたが疾により内任の解任を求め許されず、三日一朝の措置を取られた。
  • 晩年、蓄財せず子孫に「清白を遺す」ことを説いた誡子書(子崧宛て)で、田園・邸店の経営を勧める門人故旧の申し出をすべて拒み、東田に小さな園を営んだ経緯、韋黯との土地取引、謝霊運の詩を引いての無常観を語り、子孫が家産を巡って争わぬよう諭した。普通末、武帝から後宮の妓を賜り月十万銭の厚遇を受けた。中大通中、疾により特進右光禄大夫・侍中・中衛将軍、親信四十人増員、両宮からの見舞いが絶えなかったが、拝伏の負担を理由に臨幸を固辞した。
  • 卒去に際し帝は涙し即日親臨、右光禄大夫・開府儀同三司を追贈、皇太子も哀を挙げた。諡は簡粛公。骨鯁さでは范雲に及ばぬが阿ることもなく、政事を知る者は梁世で他に及ぶ者がなかった。著作に流別起居注六百六十巻・左丞弾事五巻・選品三巻・太廟祝文二巻・会林五十巻・文集五十巻・章表集十巻。大同三年(537年)故吏らの上表により碑を立てる詔が下った。
  • 第二子の悱(字は敬業)は聡敏で文才があり太子舎人・洗馬・中舎人として書記を管掌したが、足疾により湘東王友、のち晋安内史に転じた。